僕は現在、単発のアルバイトをしつつ、クラウドソーシングをしつつ、フリーランスとして確立することを目指して生きている。
そして今日、イベントスタッフのバイトに行ったときに、社員の方に言われた。
「とにかく明るく元気に、挨拶をしてください。」
「明るく元気に」
人は、明るく元気に挨拶をされると、気持ちよくなるらしい。
個人的には、あまり挨拶の元気が良すぎても、それに圧倒されて引いてしまう節があり、自分と同じテンションで挨拶されると、ちょっとほっこりするような嬉しさを覚える。
…何が言いたいかって、「明るく元気に」がすべてではないのではないか、ということ。
挨拶の本質
人はなぜ、明るく元気に挨拶をされると気持ちよくなるのだろうか。というか、そもそも挨拶とはなんだろうか。
感覚的な話になるが、挨拶には一つの儀式のようなイメージがある。今さら要るとか要らないとか、そういう次元の話ではない。
僕の好きなサッカーで例えるならば、主審の持つ笛の音。笛の音が鳴って、試合が始まる。笛の音が鳴って、試合が終わる。
その始めと終わりに、当たり前のように交わされるもの。それが挨拶なのだろう。
こんな僕でも、挨拶のない人間には一応違和感を覚えるが、それは主審の笛が聞こえないサッカーグラウンドにいるようなものだからだろう。
そう考えると、挨拶は相手にハイテンションを届けることではないことがわかる。
ポイントは「わざわざ」感
ではあらためて、人はなぜ、明るく元気に挨拶をされると気持ちよくなってしまうのか。
ここでの挨拶は、人とコミュニケーションを取ることができる貴重な機会と捉えるべきなのかもしれない。
そしてその貴重な機会にわざわざ、「明るく元気に」とエネルギーを費やす。
このわざわざこそが、明るく元気に挨拶された人間を気持ちよくするスパイスなのかもしれない。
情というか。愛というか。そういった心意気が、そこにはあるのだ。
粋な人間になろう
つまるところ、今の僕には情や愛が足りていない。
それも僕らしくていいじゃないかと肯定しそうになるのを、今はちょっと我慢してみる。
粋な人間、すてきな人間を目指して生きていこう。