0→1(ゼロカライチ)

地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#1】文句とは、希望である。

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どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

僕は毎日、noteにエッセイを書いています。文章力を養うという意味で本業の役にも立ちますし、まあ何より書くのが好きだからです。

note.mu

これまではnoteだけで公開していたんですが、急にそれではもったいなく感じたので(笑)、今後1週間分をまとめてブログにも掲載しようと思います。

ちょっと長くなるとは思いますが、どうか個人的な実験にお付き合いください。

コスパは ばつぐんだ!【7月31日(金)】


ただ発信するのが好きなんだ、自分のために創作できればいいんだ。おもにそういうスタンスでぼくは、これまでブログやTwitter、YouTubeを運営してきました。あ、このnoteもそのうちのひとつです。

しかし、今日こんなリプが送られてきました。

めちゃくちゃ嬉しかったです。YouTubeにおいては比較的「外面」を意識している部分もありますが、やはり根底は「自分のため」でした。それに、YouTubeに関してはあまり宣伝をしていませんでしたからね。わざわざメッセージを送ってもらい、Twitterのフォローもしてもらって。

これからもっと発信を頑張りたいと思いました。今後はもっと更新頻度を上げたいです(何度目の決意か分かりませんが…)。とりあえず気分がいいので、最新動画を下に貼っときます。

www.youtube.com

やっぱり、自分の発信に対して反応をもらえることはとても嬉しいことですね。きっと多くの人がそう感じているでしょうから、僕自身もどんどん反応を示していきたいとも思っています。Twitterのリプライやいいね、YouTubeのコメント、このnoteのスキもそう。どれも無料でできるのに、誰かを喜ばせることができます。コスパ抜群です。「コスパは ばつぐんだ!」です。


今後も自分の発信を続けながら、誰かの発信も楽しんでいければと思います。もっとガンガン、いいねやスキを配ります。

好きな人のインスタをミュートにしました。【8月1日(土)】


同じ地元の女の子。学生時代に付き合う手前くらいまでいったような気がするのだが、けっきょく「友だち」となり現在に至る。幸か不幸か、僕と彼女は今も仲良しだ(とおもう)。

向こうはもう、とっっっっっくの昔に、永劫的な「友だちスイッチ」に切り替えている。しかし正直、僕のココロの小さな“火”は、まだ完全には消えていない。何かの拍子でピューと風が吹き込めば、たちまち“炎”となってしまうだろう。だからココロの戸締りは、いつだって厳重にしているつもりだ。帰省した際に彼女と会う時だってそう。また大人数で集まった時も、決して油断は許されない。


今年の4月に彼女は転職をし、憧れのカフェでアルバイトも始めた。僕は、その決断に至る際の話も聞いた。当時は恋人がいなかった彼女だが、きっと新たな環境で出会いを増やしていることだろう。

だから当然、覚悟はできていた。まあそもそもハタから見たら僕は、もうとっくに覚悟を持つ必要もない存在なんだけれども。


でもついさっき、彼女のインスタでいわゆる“匂わせ”なストーリーが更新され、勝手に胸が苦しくなった。土曜日の晴れた午後。たしか前に彼氏がいた時も、こんな感じだったような気がする。どうやら、僕の覚悟は未完成だったようだ。

そしたらなんだか今日に限っては、めちゃくちゃ腹が立ってきた。自分自身にも、楽しげに匂わせる彼女にも(我ながら僻みがすごい)。そしてこうして精神を乱している責任は当然、僕自身にある。未だにココロの“火”を守り、彼女のインスタを見てしまう僕自身にある。


ということで今回、彼女のストーリーをミュートにしてみた。残念ながら、つねに笑顔でやさしく振る舞えるほど、僕は器用ではない。これまでもこうして縁をコントロールして、自分自身を守ってきたのだ。自分を守れるのは、自分しかいない。


ひとりの友だちとして、彼女の幸せを願ってはいる。そこに嘘偽りはない。でもその「結果」を願うわけで、「過程」はあまり見たくないのかもしれない。というか、見たくない。


今後も便利な機能に頼りながら、責任を持って自分自身を守りながら、新たな縁にめぐり会いたいと思っている。ああ、僕も誰かを好きになりたい。デートしたい。爽やかめにヘラヘラグダグダしたい。

時間が読めない人。【8月2日(日)】


いつかのTwitterで「地図が読めない人がいるように、時間が読めない人もいる」というようなツイートを見ました。

これまで何度も飲み会に遅刻されたり、全然わるびれる姿勢も見せられなかったり。そんなふうに平気で遅れる人に対して、おもにプライベートの場で憤りを覚えていた僕は、なんだか気楽になりました。恥ずかしながら、まったく考えたことのない視点だったからです。自分にとっての「当たり前」って、必ずしも誰かにも通用するものではないんだなあと、ふと大きめな場所に着地しました。


そしてやっぱり怒りや憤りみたいな感覚は、なるたけ心の中にない方がいいのではないかとも思いました。

たとえば今は、ウイルスに感染した人に対して怒りを覚えている人もいるそうです。いささか信じられないような話ですが、もしそういった怒りを失くせたら、当事者たちにとっても気楽になるだろうし、クリーンな世の中に近づくことでしょう。

まあ、遥か彼方のユートピアだということは、分かっているつもりですけれども。


ただ世の中にある怒りや憤りを、新たな視点やパワーで沈められないかなあ。なんてことを、先日の「時計が読めない人」のツイートで考えたわけです。

今後の創作や発信に活かしていきたいっす。

文句とは、希望である。【8月3日(月)】


東京ではここ2日ほど、いわゆる真夏日と呼ばれる状況になっております。長かった梅雨が、ようやく明けてくれました。気づけば今年もセミが、ミンミンギャンギャンいっています。

暑いだの寒いだの低気圧だの、気候に関してやたら文句を言いがちの日本人ですが、毎年その文句も含めて「季節」なのだなあと思います。そして、文句を言えることは素晴らしいことなんだなあとも思います。だって、“そうじゃない”時期を知っている、ということですからね。「梅雨長ぇなあ」と言えるのは、青空を知っているからです。いずれ夏が来ることを知っているし、それに伴い梅雨も感じられているわけです。


そう考えると、世の中にはびこる文句は「希望」なのかもしれません。仕事でもプライベートでも、“そうじゃない”状況をあたまで思い描けているから、人は文句を言うのでしょう。まあ自然とはちがって、自分の手で「梅雨」を「夏」にしなければならないような、そんな状況もあるかもしれませんがね。


文句が多めな人。ちょっと近寄りがたいけど、あの人も必死に生きてるんだよね、きっと。

男としての首位打者。【8月4日(火)】


糸井重里さんが自身のエッセイで、野球に絡めた喩え話をされていました。

まだ小学生だったころのことだ。「打点」という概念が好きになれなかった。
じぶんの打席の前に、走者がいるかいないかは、じぶんの打撃とは関係ないわけで、ある意味それは運だ。そんな運まで含んだ「打点」を競い合うというのは、ちょっとちがうんじゃないですか、というようなことを、小学生のぼくは言いたかった。
いま、長く生きてきたぼくは「打点」が大好きである。じぶんの打席のとき、塁上に走者がいるという運を、大いによろこんで得点につなげることができる選手は、もっとも頼りになるというわけだ。
(『今日のダーリン』より抜粋)

なるほどそう言われたらたしかに運の要素も強いねと、僕は小学校に通う糸井少年におもわず膝を打ちました。と同時に、中学生のころ「首位打者」を目指しだした自分を思い出しました。あ、ちなみに部活の話ではありません。いわば男としての首位打者、です。


それまでうすうす感づいてはいましたが、僕はいわゆる「イケメン」と呼ばれる顔を持っていないことに、確信を持ちました。また、目を見張るようなスラっとしたスタイルも、自分にはありませんでした。

いわゆる「高身長イケメン」は、野球で言うなれば「超スラッガー」です。僕らの世代で言うと、松井秀喜。今の時代なら、柳田悠岐や鈴木誠也。彼らは恵まれた体格やパワーで、ボールをスタンドにまで飛ばします。一方で僕のような「下位打線」の男は、ホームランを打つためのパワーがありません。

実際のプロ野球でも言えることですが、全ての野手がホームラン王争いをできるわではありません。つまりホームランは基本的に、限られた人間にしか打てないのです。


しかし逆に、全ての野手に共通する数字があります。それが「打率」です。

場外にまでボールを遠くに飛ばそうが、ボテボテの内野ゴロでセーフになろうが、その打球の質は関係ありません。打数に対してどれだけヒットを打てるか、競うのはそれだけです。

男としてホームランを打てないことを悟った中学生の僕は、首位打者になりたいと思いました。その時はおもに服装や髪型、あとは日ごろの振る舞いなど「工夫できるもの」に気を配ろうと思ったんです。結果としては、自分で言うのもアレですが、そこまでわるくない打率だったのではないかと思います。


今日の糸井さんのエッセイを通じて、そんなむかしの記憶を思い出しました。これからは男として、というより、人としての首位打者を目指してもいいなあと思いました。まあ、そう思うのはカンタンで、実際に打席に立ち結果を残すのがむずかしいんですけどね。


サブスクがなくしたもの。【8月5日(水)】


大物アーティストがサブスクリプションサービスに登録すると、Twitterでは「サブスク解禁」がトレンド入りします。まさに、昨夜がそうでした。米津玄師さんが最新アルバムもひっさげ、待望のサブスク入り。ちなみに僕は、よねづ「げんじ」なのか「けんし」なのか、いっつも分からなくなっていましたが、正しくは「けんし」だそうです。これを機にきっちり覚えようと思います。

今日はさっそく、彼の楽曲を聴きながら過ごしました。これまでYouTubeにUPされているものはなんとなくチェックしていましたが、アルバムとして聴くのは初めてだったので新鮮でしたね。今後もっと彼の世界観を味わってみたいと思います。


またなぜか今日は、サブスクが広まる前の自分の“音楽事情”に、ふと思いを馳せていました。

大学生の僕は仙台駅前のTSUTAYAでCDを借り、自宅のWindowsでせっせとiTunesにインポートしていました。いちいちアートワーク(ジャケット写真)をネットで探して貼りつけて。16GBのiPod nanoだったから、新譜を借りる度に“メンバー外”になるアルバムを選んだりして。

いま利用してるApple Musicと比べたらたぶん金額的には変わらないし、むしろ面倒な手間が多いんだけれども、あの音楽事情もわるくなかったなあ。TSUTAYAで「5枚で1000円」なんだけど4枚しか借りたいものがなくて、惰性的に借りたアルバムもあった。狭い店内で偶然、バイト仲間と出くわしたこともあった。視聴用のプレイヤーの音量がMAXになってて、死ぬほど驚いたこともあった。


サブスクは確かに便利だけど、自分が経験した文化がなくなると思ったらちょっとさみしいね。あのTSUTAYA、まだ元気にしてるのかな。ま、仕方のないことなんだろうけどね。


830円のクリームソーダ。【8月6日(木)】


家の外で仕事をするとき、僕はたいていスターバックスに入る。電源席もあるし、快適なWi-Fiも完備されている。ドリップコーヒーなら約300円で飲めて、そのレシートをその日のうちに使えば、2杯目のコーヒーは100円で飲める。いわゆる「スタバはしご」は、僕の得意技である。

しかし今日、頼みのスタバが満席で入れなかった。パソコンの充電は5%。どうしようとスマホを立ち上げた挙句、近くにあった「ルノアール」に入ることにした。


上野駅近くのルノアール。炎天下の中を歩きながら、なんとなくクリームソーダを飲もうと胸を躍らせていた。そしてきっちり電源がある席を希望し、一応かたちとしてメニューを開く。するとクリームソーダは、830円だった。

いつも400円で2杯のコーヒーを飲んでいるぼくは、店員さんの前で密かに面食らった。どうせ500円前後だろうと思い込んでいたからだ。とはいえ心は決まっていたから、クリームソーダを注文した。ちなみに、チェリーは浮いていないタイプのやつだった。


まあ、味は普通だった。決して格別においしかったわけではない。しかし、それ以上の価値を感じる自分がいた。

店内がめちゃくちゃ静かで、居心地が良いのだ。このご時世も関係しているのだろうが、スタバで見られるような忙しない客の入れ替わりがない。隣の席とはゆったりとした間隔が設けられ、ソファーもふかふか。僕がクリームソーダを飲み干してからも、温かいお茶とお冷やを何度も提供してくれた。

クリームソーダだけで「価値」を計ろうとしていた自分が、急に恥ずかしくなった。喫茶店にとっては、提供する時間や空間も重要な価値なのだ。


結果として、今日はスタバに入れなくて良かった。もちろん自分の中で「定番」を作るのも楽しいが、たまにそれを壊して“830円のクリームソーダ”を飲むようなことも大切なのだろう。きっと人生を豊かにしてくれるもの、なのだろう。



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