どうも、ぼーの(@nobo0630)です。
気がつけば今週も金曜日になっていました。
毎週恒例の「週刊エッセイ」です。よろしくお願いします。
- 甘え方も、点ではなく線である。【9月11日(金)】
- モヤモヤを大事にしたい。【9月12日(土)】
- 共感力。【9月13日(日)】
- 「将来の夢=職業」をどうにかしたい。【9月14日(月)】
- noteの更新が“無意識”に近づいてきた。【9月15日(火)】
- 絶対的な自分のモノサシ。【9月16日(水)】
- 名称をつけることは。【9月17日(木)】
甘え方も、点ではなく線である。【9月11日(金)】
きのう、こんなことを思いました。
「甘え方にもコツがある。」ってタイトルで取材させてくれる人いませんか。教えてほしい塩梅がむずい
— ぼーの / コピーライター (@nobo0630) 2020年9月10日
ふと、自分は誰かに甘えることが上手じゃないと思ったんです。今の僕はいわば「何か食べさせて〜」と言っているような状況。でもそうじゃなくて「○○が好き」「きのうは○○を食べた」などと、相手にある程度の情報を与える“思いやり”が重要なのかなあ、とかなんとか。きっと甘えることにもコツがあるんだろうなと思ったのです。
そして昨夜「甘え方にもコツがある。」というテーマで、クリエイター仲間とTwitter LIVEで議論をしました。その模様は削除していますが、多くの発見を得られたと思っています。
いちばんは「甘える」だけが単体で成り立っているわけではない、ということ。それまでに構築している信頼関係が、その甘え方に大きく関わってくるわけですね。瞬間的なテクニックでどうにかなると思っていましたが、そんなことはないのです。僕はまさに、甘かったわけです。
また甘えることは、自分の弱さを見せることとも言えます。だから、上手な甘え方には自分のキャラクターも含めた相手との相性も、大きく関係するのです。
アーカイブは削除しましたが、結局「点ではなく線で捉えること」が重要だということです。甘えは甘えだけで存在しているわけじゃない。それまでの人間関係あってこそ、です。 https://t.co/SDj9AnzSwZ
— ぼーの / コピーライター (@nobo0630) 2020年9月10日
すなわち、重要なのは「点ではなく線で捉えること」。もうこうなると「甘える」に限った話ではないかもしれません。仕事も遊びもやはり何事も、人間関係の上に成り立つのですね。
コミュニケーション、上手になりたいなあと思いました。総じて。
モヤモヤを大事にしたい。【9月12日(土)】
「仕方ない」という感覚を身につけてから僕は、良く言えばおだやかな、悪く言えばつまらない人間になったような気がします。自分だけの“世界”と、他人も含めた“社会”にズレがあること。それを「仕方ない」と受け入れることは、僕のココロに寛容と無関心を宿してくれました。この変化は「成長」と呼んでいいと思えるほど、これまでは僕にとってポジティブなものでした。
しかし最近、“無関心”の側面が気になる自分がいます。それは社会との「良好な関係」の妨げになることが分かってきました。あるいは、自分の世界に固執しすぎなのではないかと不安になってきたのです。
また寛容と無関心は、紙一重だなあとも思います。どちらも自分のココロの「“受け入れられない”という場所に解釈を置かないこと(紛らわしくてごめんなさい)」は同じです。しかし、その対象と向き合った上で解釈する寛容に対し、無関心はその対象に見向きもしないような感覚。僕はココロに大きくて便利なゴミ箱を得ただけで、決して成長したわけではなかったのです(こう考えると紙一重でもないか)。
そこで僕は、自分にとっての「受け入れられないこと」と、もっとしっかり向き合いたいと思っています。いわゆる“モヤモヤ”です。これまでは少しでもモヤモヤを感じたら、即座に無関心のスイッチを入れていました。しかし今後は、寛容をめざしたいです。すぐには叶えられないと思いますが、まずはモヤモヤと向き合うことから始めようと思います。
そんな想いを抱き、昨夜『standfm』というアプリでラジオ配信を始めました。
これまで見向きもしなかったモヤモヤですが、今後はむしろ見逃さないよう大事にしたいと思っています。ラジオ配信を通じて、自己理解を深めていきたいと思っています。まずは週1での配信が目標かなあ。あ、コラボしてくれる方、大歓迎です。
共感力。【9月13日(日)】
コミュニケーションを上手な、いわゆる人からモテる人には“共感力”が備わっています。共感力。共感する力です。最近、ようやく分かってきました。
たとえば「ああ、転職したい〜」と言う人がいるならば、「そうだよねダルいよね〜」と共感するのです。むかしの僕のように「え、他にやりたいことあるの?」「じゃあアクション起こせば?」などと思ってはいけないのです。もちろんその相手にもよると思いますが、必ずしも他人が“答え”を欲しているわけではありません。
お笑い芸人で言うなれば、ぺこぱのような態度が必要です。「転職をしたいならすればいい…でも大変なのも分かる!」みたいな。そんなイメージです。最近の僕は、ぺこぱを倣って、コミュニケーションを続けていきたいと思っています。
「将来の夢=職業」をどうにかしたい。【9月14日(月)】
物心がついた頃から「将来の夢はなに?」「何になりたいの?」とよく訊かれた記憶がある。僕はお寿司屋さんとかプロ野球選手とか、自分にとって身近な“職業”を答えていた。それを聞いた大人たちはそれなりにポジティブな反応を示してくれて、「これでいいんだ」と感じた。まちがいなく“不正解”ではなかった。
すると自然と「将来の夢=職業」という公式が頭に植え付けられていた。僕は、世の中に蔓延るこの恐ろしい公式を、なんとかしたいと思っている。このままではいけない。やばい。まずい。
大人になってから気がついたが、将来の人生を考える上でもっとも重要なのは「何になるか」ではない。「どう在るか」だ。職業はあくまで、その「どう在るか」を叶えるための“方法”のひとつであり、決して“目的”ではない(もちろん例外もあるとは思う)。
もし僕が子どもの頃「どう在るか」と訊いてくれる人がいたら。いわゆる“たられば”の話を広げても仕方ないのだが、頭の中や人生は今より洗練されていたような気がする。
だから僕は、今後ちいさい子どもを相手にした時「何になりたいの?」ではなく「将来、どういう風に生きていたい?」と尋ねたいと思っている。むずかしいかな?いや、そんなことないよな。
「お金持ちになる」「海外で暮らす」「自分が好きなことで生きる」。たまに女の子が言う「およめさんになる!」もその一つだ。職業は言わせたくない。とにかく簡単でいいから、生き方で将来を語ってもらいたいのだ。
そして今の僕は、大人として、彼らの大風呂敷を広げる手伝いをしたいと思っている。
noteの更新が“無意識”に近づいてきた。【9月15日(火)】
いつのまにか、noteの連続更新が250日を超えていました。この事実を誰かに話すと、けっこう驚いてくれます。決して嫌な気はしません。また感覚的に「連続更新の日数」と「彼らの驚き」は比例しているように思えます。数字が大きくなるほど、他人の反応も大きくなるのです。
ただ僕の中では今、「その日数」と「投稿に対する意識」は反比例しています。たとえば100日を過ぎるまでは「よし今日も更新できたぞ!」「まだ〇〇日更新かよ…」などと思っていました。投稿できたことに喜びを感じ、またいちいち日数を気にしていたんです。しかし、今は公開ボタンを押してもテンションは横ばい(むしろ安堵して下がるかも)。もう表示される日数も気にならなくなりました。
いや、ネガティブな話ではありません。むしろイイ話なのです。それだけ習慣として身についてきたということですから。ほら、これまで歯を磨いた回数を数えている人はいませんよね?「よっしゃ〇〇日連続で磨けた!」という人は、かなりマイノリティだと思います(もしあなたがそうならばちょっと飲みにいきましょう)。
だから最近は、自分の「投稿に対する意識」が薄まっていることにふと気づくと、嬉しくなっちゃいます。いつも気がつけばネタを探しているし、気がつけば文字を書いている。徐々にnoteが“無意識”に近づいているんですね。つくづく、良い距離感になってきたなあと思います。
とはいえ、まだまだ筆を止めるつもりはありません。糸井重里さんは1999年6月6日からず〜っと『今日のダーリン』を更新されていますからね。もう20年以上も、ですよ。もちろん、糸井さんのエッセイと僕のこのnoteを並べ比べることなんて決してできません。ただ僕は、彼を北極星として歩みを進めていこうと思っています。
ここまで来ると唯一怖いのは「寝落ち」ぐらいですかね。。
絶対的な自分のモノサシ。【9月16日(水)】
無印良品のジャケットが忘れられない。くすんだ緑色のジャケット。モスグリーンとも言うだろう。ここ1週間ほど、ずっと頭の中に居座っておられる。たまにあるんだよね、欲しいものが心に引っかかること。
僕はこういう時だいたい、手が届く範囲ならばすぐに買ってしまう。買うか買うまいか、本当に使うか使わないかなど、悩む時間をもったいないと思うからだ。モノによってはYouTubeなどでレビューを参考にすることもあるが、そこまで見にいくということは、そこまで欲しているということでもある。他人の評価を参考にするより、さっさと自分の身で体感し、絶対的な自分のモノサシで評価すべきだと思っている。
そしてこの感覚は僕にとって、モノに限らずコトでも言える。コピーライター養成講座をめざして上京した時がまさにそうだった。もう3年も前の話か。自分のモノサシ、これからも大事にしなきゃな。
ということで、こんど無印に行ったら買っちゃいます。もうそろそろ本格的に秋だからね〜。
名称をつけることは。【9月17日(木)】
モノやコトに名称をつけることは、世の中がその存在や価値を認めることに繋がると思うんです。生まれた子どもに命名することや会社に名前をつけること、商品やサービスのネーミングを考えることなどがそれにあたります。
例えば最近では、HSPやADHDなどという言葉が生まれました。社会に対して生きづらさを持つ人が、その名称のおかげで幾分生きやすくなったと聞きます。それは正式な「症状」として世の中に認められたからです。つまり名称は、世の中に“理解するチャンス”をもたらしてくれます。あ、きっと自分自身にも好影響を与えますよね。自信に繋がることもあると察します。
僕は昨日、こんなことを思いました。
ぼくの性格にも病名をください
— ぼーの / コピーライター (@nobo0630) 2020年9月16日
自分のイヤな性格にも、れっきとした名称がつけば救われるのではないか。そんなことを考えました。ふとした時に、自分のイヤな部分や記憶が頭を占拠することは、僕にとってよくあることなんですが。まあつまり、名称つけることにはポジティブな力があるのではないかと気がつきました。
今後この力をどうにか生かせないかなとか、漠然と思っていたりもします。僕の活動におけるヒントになるような、そんな良い予感がしています。わくわくです。
とはいえ、名称は必ずしもポジティブであるとも限りません。例えば「駆け込み乗車」や「歩きスマホ」なんて言葉は、海外にはないそうです。注意したいがあまり、世の中で存在を認めてしまっているんですね。まるで逆効果です。
そのあたりも含めて、僕はネーミングを学んでいきたいのかもしれません。面白くなりそう。いや、面白くしないとなあ。
▼noteではエッセイを毎日更新中▼