どうも、ぼーの(@nobo0630)です。
毎週金曜恒例『週刊エッセイ』のお時間がやってきました。
この記事の本タイトルは、その週に書いたエッセイの「良さげなタイトル」を取り上げています。
カンの良い方ならお気づきかと思いますが、今回はミスチルが登場します。僕はミスチルが大好きです。
どうぞよしなに〜🙇♂️
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- 雑誌にありがちな奇抜なビジュアルは。【11月13日(金)】
- フリートとの難しい距離感。【11月14日(土)】
- 生きてる理由なんてない。だけど死にたくもない。【11月15日(日)】
- プランナー活動、ちゃっかり始まってます。【11月16日(月)】
- “価値”が何よりだいじ。【11月17日(火)】
- 誰もが自分の演出家であれ。【11月18日(水)】
- ツイ消しと等身大。【11月19日(木)】
雑誌にありがちな奇抜なビジュアルは。【11月13日(金)】
ファッション誌やヘアカタログを眺めていると「いや〜さすがにコレ実践する人いるかな?」という奇抜なビジュアルが載っている。少なくとも、僕にとって1つはある。実用性とは遠くかけ離れているため「ページを稼ぐためのモノかな?」なんて勘ぐっちゃったりもする。
しかし今日の昼過ぎに行った美容院で雑誌を見ると、その奇抜も含めて、より多くのことをファイリングしておくのが重要なのではないか、なんて気持ちになった。これまでと真逆の感覚を抱く自分がいたのだ。
というのも、午前中に地元のとある街と「まちおこし」についてMTGを行ったことが影響している。街の方々が抱える課題を聞いていると、解決の参考になりそうな他の自治体の成功事例が、結構するすると浮かんできた。
僕はここ1ヶ月、あらゆる地方のイベントに参加しており、もう何でもかんでもインプットしていた。プレゼンしてくれる自治体のことはもちろん、他の参加者の感情やファシリテーターの姿勢まで。とりあえず足を運んで(ほぼZoomだったけど)とにかくインプットしていたのだ。
イベントに参加しながら気になったことをメモっている時は、実用的だとか奇抜だとか、その“質”はあまり気にしていなかった。ただ、いざ自分が現場に近づいてみると、割と何でも力になってくれるような気がした。むしろ頭に蓄積されたファイルの“厚さ”が、僕の自信にもなってくれると思った。ヘンな話、「質より量」が重要視される世界線だったわけだ。
ということで、雑誌にある奇抜ビジュアルも愛おしく感じられるようになったという話である。今では、そこに「載っていること」に意義があるような気がする。どれとどれが結びつき、どんなアイデアが生まれるかなんてことは分からない。だからアイデアは面白い。
今後は“厚さ”も意識しながら、地方イベントに限らずインプットを継続していきたいと思う。あ、もちろん適度なアウトプットも忘れずにね。
フリートとの難しい距離感。【11月14日(土)】
最近、Twitterに「フリート」という機能が追加された。24時間で自動的に投稿が消滅する、インスタのストーリーズのような機能だ。この実装の裏の一部には「タイムラインには有益なものしか許されない」みたいな風潮があるという。いわばもっと無益なものを発信できるようにという願いが、フリートには込められているようだ。
個人的には、このフリートをまだ一度も使用できていない。「できていない」というか「していない」。あえて大げさに言うなれば、理念に共感できないからだ。
僕は“よそ行き”の有益なツイートだけでなく、いやむしろ、無益なツイートにこそ個性を感じる。あるいは好感を持てる。親近感が湧く。つまりシンプルに、好きである。だからフリートに無益が流れてしまったら、その人のタイムラインには「その人らしさ」を感じられなくなってしまうのではないかと思ってしまうのだ。
まあ、これはあくまで一般の一個人のアカウントに該当する狭い感情であり、Twitter社としてはもっともっと広い世界を見据えていることだろう。ただ一般の一個人として、ちょっと寂しい気分にさせられてしまった。せっかくだから楽しみたい気持ちはあるけれど、フリートとの距離感、難しいなあ。
生きてる理由なんてない。だけど死にたくもない。【11月15日(日)】
名前もない路上。荒れ果てていて、人の気配はない。誰も通らない。
僕は、膝を抱えてヒッチハイクをしている。
しかし案の定、誰も迎えには来ない。
そりゃあ、もっと大きな通りならば、もっと簡単に乗車できるだろう。
それはもちろん分かっている。でも、それじゃあ意味がない。価値がない。つまらない。
前例にないことを成し遂げたい。もう少し、この場所で待っていたい。
あ。一台の車だ。女性が運転している。
なんと、僕を助手席に乗せてくれるらしい。ありがとう。嬉しい。
快適だ。待った甲斐があった。なんでもやってみるもんだな。
…いやでも、だんだん腰が痛くなってきた。会話を合わせるのも正直しんどい。そうだ、眠ったふりをしよう。
やっぱり、僕がハンドルを握りたい。自分が望む場所に進んでいくんだ。
それこそ、まだ名前のない路上を。道無き道を。
そしてヒッチハイクをしていたかつての自分は、僕自身が迎えにいくんだ。
僕はきっと、僕の車じゃないと満足しない。誰かの車じゃつまらない。
正直あの時は、なんとなくヒッチハイクしていた。誰も通らない場所に立っているだけで、何かを成し遂げた感覚に陥っていた。なんとなく今日をやり過ごしていた。
でも、今はちがう。
先の知れたような将来を変えてみせる。一見くだらない自分の理想を、実現してみせるんだ。
待ってろ、あの時の僕。すまんもうちょっとだけ、膝を抱えてヒッチハイクしてろ。
よし、やる。やるぞ。
自分を信じたなら、ほら、未来が動き出す。
プランナー活動、ちゃっかり始まってます。【11月16日(月)】
宮城の各移住関係者の皆さんに現地を紹介してもらう「みやぎ行脚」から、はや1ヶ月。今はその行脚で出会った、とある地域の方々と連絡を取っている。僕が突然送りつけた企画書をきっかけに、自治体の発信活動やコミュニティ活動へ首を突っ込ませてもらっているのだ。おもに企画に関する相談などを受けている。
僕には、いわゆる地方創生に関する経験も実績もない。それなのに、今こうして“打席”に立たせてもらっている。最近はさまざまな過去の事例を調べたり、全国各地方のイベントに参加したりしながら、うんうんと頭を悩ませている。とてもありがたい話だ。本当にただただ、感謝である。と同時に、勝手に企画書を書き、向こうへ送りつけた自分もすこし誇らしく思う。
みやぎ行脚から東京へ戻ってからの僕には「都会と地方の人々をつなぐプランナーになりたい」という想いが芽生えた。初めは地方の“内側”で自分の好きなことをしたいと考えていたが、都会から地方のコミュニケーションを見た時に、わるく言えば違和感を、よく言えば可能性を感じたからだ。
そして気がつけば、今まさにプランナーっぽいことができている。先日オンラインでMTGをした際には「年末年始には、ぜひ直接お会いしましょう」なんてことも言ってもらえた。地方の方々のあたたかい人柄があってこそだが、今後もこの関係を続けていけるよう、今はできることに精一杯取り組んでいきたい。
総じて、とてもポジティブな日々を送れている。
“価値”が何よりだいじ。【11月17日(火)】
近ごろ、自分の仕事観が変化している。
大した実績もなくいわば消去法で独立した僕は、まずはその“大した実績”とやらを作ろうとしていた。自分でインプットやアウトプットを重ねるなり、公募形式のコンテストに応募するなりして、とりあえず「他人を説得するための力」を手に入れようとしていた。
しかし極端な話、その“大した実績”は「もっとも重要なわけではない」ということに気がついた。実績やスキルは、もちろん「ある」に越したことはない。ただ僕にとってもっとも重要なのは「“価値”を生み出せるか」ということだった。
つまりどれだけ貧弱なスキルでも、誰かの役に立てばいいのだ。誰かとの関係性の上で“価値”を生み出すことが最重要。つまりどれだけ優れたスキルを持っていても、1人ぼっちでは意味がない。“価値”が生まれないからだ。
まあ、これはある種の負け惜しみであり開き直りなのかもしれない。書きながらそんなことが思えてきたが、僕は、一見よう分からん広告の賞をめざすよりも、目の前の人を笑顔にすることをめざしたいと考えている。
誰もが自分の演出家であれ。【11月18日(水)】
例えば新しい仕事に取り掛かるときは、作業する内容であったり目的だったり、その仕事仲間と「共有」することを意識しています。まあ当たり前のことかもしれませんが、僕は勝手にリスト化して「今こんな想いを抱いてるんですが、合ってますかね?」とコミュニケーションを取ります。これまで、そんなにわるい反応を受けたことはありません。まあもちろん、相手の本性など知る由もありませんが。
ただ僕はこのコミュニケーションを通して、単に仕事の“足並み”を揃えたいわけではありません。その共有しようとする姿勢が、少しでも相手からの「信頼」や「安心」につながるような気がするのです。仕事の結果へダイレクトに反映されること以外にも、大切なことはたくさんあるのです。
僕はようやく、そんな世の中の一部を受け入れられるようになってきました。いわば、自分自身を「演出」することも大切なのです。もうちょっとイマ風の言葉で言うなれば「あざとさ」も大切なわけですね。
例えばカフェへ行き、さあ注文をするぞというとき。僕は正直、わざと店員さんの目の前でイヤホンを外すようにしています。…そういうことです。
ツイ消しと等身大。【11月19日(木)】
今日、ふとしたツイートを消そう(修正しよう)と思ったんですけど、やめました。そして消さない代わりに、自分でリプを追加しました。
スタバ。目の前の席に赤ちゃんを抱きながらPC作業をするパーカーの男性がいて、僕は「令和」を喰らっている。
— ぼーの (@nobo0630) 2020年11月19日
「モロに喰らっている」だったな〜ミスったな〜でも消さな〜い
— ぼーの (@nobo0630) 2020年11月19日
僕は最近「等身大」で生きることを人生のひとつのテーマとしています。これまで不器用なのに見栄っ張りな性格のおかげで、幾度となく後悔してきたからです。もう今や、人生は「等身大」で生きることができる環境や人間関係があってこそではないか、ぐらいのテンションで生きています。
そしてそう信じ出してから、何度もお世話になってきたいわゆる“ツイ消し”をやめました。シンプルに「等身大」ではないからです。また、後から見て内容が幼稚に思えたのか、誤字脱字があったのか、今回のように表現に物足りなさを感じたのか、いずれにせよ消したくなるツイートにこそ「等身大」の自分が映るような気もするのです。僕のアカウントは有益でご立派な情報を流すものでなければ、企業のオフィシャルなものでもありませんからね。
今後も、とくにTwitterでは「等身大」の僕を発信していきます。ツイ消しはしません。消したくなるツイートも含めて、僕なのです。
…ただ現実では、自分の言動をなかったことにできたらイイのになあ、なんてことは思っちゃいますね。たま〜に。
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