0→1(ゼロカライチ)

地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#21】スタートを切ったら。

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新年あけましておめでとうございます。ぼーの(@nobo0630)です。


年末にPCR検査を受診し「陰性」を確認したのち、現在は地元の宮城で過ごしています。まあその経過はまた別の記事で詳しく書くとしましょう🙄


さて、先週はサボってしまいましたが…今年も『週刊エッセイ』は継続します。どうぞよろしゅう


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スタートを切ったら。【1月1日(金)】

学生時代、運動会が好きだった。自分で言うのもアレだが、僕は地元でトップクラスの足の速さを誇り、けっこう頼りにされたからだ。リレーではアンカーを担ったり、“逆に”アンカーの前を走ったりした(当時から斜に構えてる件)。他の学年や父兄たちからの視線も、たしか悪くなかったものだった。

だから、毎年それなりのプライドを持って臨んでいた。ひと学年が6人1組になって100〜200mを走る徒競走とか、僕にとってはまさに「絶対に負けられない戦い」。毎年1位が至上命題で、スタートと共に交錯して転び4位に終わった5年生では、身も心にも小さくない傷を負った。ただ、当時しっかり「敗北」を叩きつけられたのは、後の人生には良かったのかもしれない。

…って今回はそういう話ではなくて(笑)、「絶対に負けられない戦い」の徒競走の話だ。自分の順番が来るまで、ずっと緊張で心臓がバクバクしていた。そしていよいよスタート地点に立ち、ピストルを持った先生の「位置について、よーい」の声がかかる時が、心拍数の超ピーク。もれなく死にそうになった。しかし、パン!という乾いた音が鳴り響くと、いつもその緊張はどこかへ消え、もうとにかく必死に走っていたように思う。いざスタートを切ってしまったら、もう不安だ恐怖だ言うヒマはなく、懸命にゴールへ駆け抜けるしかないのだ。まあ、今回は短距離走の話、なのだが。





2021年がスタートしましたね。年が明ける前に考えていたアレやコレを、今こそかたちにする時です。おもに自戒のために書いていますが、このnoteを読んでくれているあなたもぜひ、想いを実現させていきましょう。僕も頭と手を動かします。今年のゴールに良い結果が待っていることを目指して、ね。とても楽しみです。

ということで皆さま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

肯定してくれるひと。【1月2日(土)】

自分を理解し肯定してくれる存在は、やはり尊いものだ。とても嬉しい。ほんとうに、ありがたい。

地元で中学や高校の同級生と会い、そんなことを強く思った。会社員という“王道”から外れて個人として生きる僕を、応援してくれているからだ。

大卒6年目にしてようやく自分の価値に気づけたこと。社会に対してベクトルが向き始めたこと。そして、現在は地方に活路を見出だしていること。こんな今の僕を、友人たちは受け入れてくれた。

もし、否定されるような環境にいたら。僕はここまでポジティブな気持ちを抱けていないだろう。

今年のテーマは「稼ぐ」だ。しっかりと社会に対して、価値を示すこと。応援してくれる人のためにも、その目標に向かって努力していきたいと思う。

それぞれの生き方で。【1月3日(日)】

野生の動物たちは、ペットとして人間に愛される動物を見てどう思うのだろう。

たとえば、犬。ペットならば、基本的には毎日飼い主にドッグフードを用意してもらえる。シャンプーやトリミングなどで、容姿も整えてもらえる。そしていつかのSNSで見かけたが、お腹を出して寝てしまう犬もいた。それほど安心感を抱いているということだろう。

おそらくだが、いずれも野生の世界にはない要素だ。

そんな恵まれたペットに対して、もし自分が野生の動物なら、まずはきっと妬みを爆発させるだろう。俺はわざわざ狩りをして、苦労して食糧を獲っているのに。何がシャンプーだトリミングだ、容姿を気にしたって仕方ないんだろう。安心感など芽生えたらおしまい危機感こそ正義だ、などというように。ただただ羨ましいだけなのかもしれないが、憎らしさみたいな感情を覚えるだろう。

しかし、必ずしもネガティブなものばかりで心が埋め尽くされるわけでもないと思う。ペットには首輪が着けられるため、安心はあっても自由は(少)ない。だから野生の自分が、上手にペットとして生きられるかといったら、決してそういうわけでもないだろう。

結局は、それぞれがそれぞれの生き方をシンプルに信じられる世界であってほしい。実家で過ごす兄を見て、僕はそう感じた。もう完全に自戒なのだが、それぞれの生き方でしあわせになっていこう。妬んだところで、ポジティブなものは生まれないからね。

完成度への納得度を、高く。【1月4日(月)】

おととい、noteの連続更新が365日を迎えた。ひとつの目標にしていた数字だ。

自分が感じたことや考えたことを書くエッセイという形式で、1年間更新を継続してみた。きっかけは糸井重里さんの『きょうのダーリン』と、古賀史健さんのnote。お二方の「何気ない日常にスポットライトを当てるような文章」が書きたくて、僕もそれなりに書き始めたのだった。

しかし実際は、そう簡単な話ではなかった。これまで記事の完成度に対して「よし!イイのが書けたぞ!」と納得できた割合は、決して高くない。もう低いと言ってもいい。恥ずかしながら、これでも自分にがっかりした。そして、糸井さんと古賀さんに対してのリスペクトがより大きくなった。

今日で367日目。2年目の今シーズンの目標は、完成度への納得度を高めることだ。もう別に、完成度が低いものの投稿に抵抗はないが「よし!イイのが書けたぞ!」を増やしていきたい。そしてそれこそが、さらなる次の目標に見据える多くの人に読んでもらうことにも繋がると思うからだ。

問題児こそ、尊い存在。【1月5日(火)】

学生時代に「問題児」と呼ばれてしまう存在がいた。例えば、自分の世界に没頭して先生の声が耳に入らない子。勉強について行けず成績が良くない子。クラスに馴染めず登校をやめてしまう子。そんな彼ら彼女らには、先生からの注意が飛ぶ。あるいは同級生たちからの冷ややかな視線が刺さる。すると彼ら彼女らは、学校という小さな小さな世界で、色眼鏡に耐えなければならなくなる。ヘタをすると、どんどん生きる自信を失くしていく。

しかし大人になってみると、当時の問題児のような人こそ、社会に新風を吹かせる貴重な存在ではないかと感じる。当時「問題児ではなかった人」は、もう大人になると問題すら起こせていない。もちろん立派に活躍している人もいるだろうが、あくまで社会の歯車のひとつとして働いている印象だ。もちろんそれほ素晴らしいことだ。ただ、もう個人的な好みにもなってしまうが「問題児タイプ」こそ、やはり尊い存在ではないかと思ってしまう。

だから僕は決して、“問題児の芽”を摘みたくない。

というのも今後、コピーを書くことや考えることを通じて、少しばかり地方の学生たちの教育に携われることになったのだ。ことばの面白さや難しさだけでなく、互いの価値観へのリスペクトや、他人との意見の相違は悪くないということなどを、いっしょに考えていきたい。そして同調圧力に屈しない、というかもはや気にしない、凛とした問題児を育てていけたらと思っている。

とはいえさてさて、初の試み。これからどうなることやら。。

あのときのあの選択が。【1月6日(水)】

「あのときあの選択をしていなかったら、今ごろどうなっていたんだろう」と思えることがあります。過去の自分のおかげで成り立った、現在の環境がありがたいという話です。



たとえば僕の場合は、約2年前。クラウドソーシングの大手『ランサーズ』の「岩手県八幡平市でイケてるポスターをつくる」という企画に参加していなかったらと思うと、今でもゾッとします。未だにデザイナーとイラストレーターをごちゃ混ぜにしていたことでしょう。地域おこし協力隊という生き方を知らなかったことでしょう。そして何より、今でもしょっちゅう連絡を取り、制作活動やオンラインゲームを楽しんでくれる仲間に出会えてなかったことでしょう。

ちょうど会社をやめたばかりで、ランサーズからのメルマガをたまたま開き、「なんか面白そうじゃね」と実に軽いノリで応募フォームを送信した自分を称えたい。あのとき八幡平に行っていなかったら、きっと今の自分は…とりあえずPUBGというゲームを知らなかった(笑)。いやまあとにかく、あのときの選択が、今の自分の大きな支えになってるんですね。



昨日は岩手県のまた別の場所で、新たなプロジェクトの打ち合わせをしてきたのですが、正直あれほど楽しく話せたことはありませんでした。個々人でリラックスしながら、互いに信頼やリスペクトを置きながら、そしてプロジェクトには程よい緊張感を抱きながら、それぞれ話せていたように思います。

彼らは、昨年たまたま参加したオンラインでの移住イベントをきっかけに知り合った人たちでした。だからやっぱり昨日も思いましたね。「あのときイベントに参加しといて良かった〜」って。「面白がってたあのときの俺ナイスぅ〜」って。



これからも、後になって振り返ったときに「あのときのあの選択が…」と思える回数を増やしていきたいと思います。そしてそのためには、情報にアンテナを張り、穏やかな感情を携え、何より行動を重ねていくことが重要なのかなあ、なんて。そんなことを考えてますね。あ、あとはご縁に感謝です。ほんとに。

ムダこそ人の武器である。【1月7日(木)】

元日に実家へ帰ってきてから、たいへんありがたいことに忙しく過ごせている。ライティングやコミュニティ運営、イベント開催などの打ち合わせが続いているからだ。正直、フリーとなってからこんなにもバタバタしたことはない。やることが山積みだ。しかし、ちゃんとワクワクもできている。

その打ち合わせは、いずれもオフラインで行われた。昨年からはZoomを中心に、きっとオンラインでの会話が増えたという方も多いと思う。ただ改めて、今はいわゆる“フェイス・トゥ・フェイス”の素晴らしさを感じることができている。

その理由は、オフラインには「ムダ」があるからだ。つまり「遊び」があるのである。

オンラインは、間違いなく便利だ。基本的には、何も問題なくコミュニケーションを取れる。ネット環境とデバイスさえあれば、場所の制約もない。ただ、話すときの間(ま)や表情が分かりづらい。相槌も打ちづらい。そして本来の話題から、雑談という“脱線”もしづらい。

もうとっくに擦り倒されている話題だが、やはり良い企画やアイデアは、ムダや遊び心から生まれることが多い気がするのだ。まさに今日も、そうだった。ふとした雑談から「それイイね〜!」と、次の企画の芽が生えたのだった。



これからはAIに多くの仕事が任されると聞く。確かに体力は無限だし、集中力という概念もない。でも、彼らはきっと「ムダ」や「遊び」は生み出せない。それこそ人間が誇るべき、じゃた愛すべき要素なのだと感じた。


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