0→1(ゼロカライチ)

地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#32】実現アイデンティティ。

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どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

noteの連続更新は460日を超えました。

つまりこのブログの「週刊エッセイ」も継続されるということです。

今回も、ひとつよしなに🙇‍♂️


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仕事を受注する2つのパターン。【4月2日(金)】

僕はフリーで活動しており、仕事をいただく身分です。いわゆる受注者です。そしてだんだん分かってきたのですが、誰かから仕事を頼まれる流れには、2パターンのきっかけがあると思っています。

ひとつは、自分が特筆されるべき実績を持ち合わせている時。実績は確かな経験やスキルを示すものであると思いますから、お金を払う発注者としてはそこを見るのはマストなのだと思います。

そしてもうひとつは、発注者と人としての関係性を構築できた時。まず仕事を度外視した関係性を築き、その後「そういえばアンタ〇〇できたんだっけ?よかったら助けてよ」と、頼まれるパターンです。

たとえば大手企業での就業経験もない僕は、後者のパターンが自分に合っているのだと思います。最近は地方で活動することも増えてきて、その色が特に濃くなってきたような印象です。そもそもプレーヤーが少なく40代でも「若手」と見なされる地方では、まず人間関係を構築し、仕事へと発展していくのです。

フリーとして活動していくなら、自分の仕事をまとめたポートフォリオは必須なのだと思います。でも、それぞれに合った受注の方法もあることでしょう。たとえば僕は、キレイなポートフォリオ制作にこだわるならば、地方の人たちと世間話でもしていたいなあと思います。

宮城南部に行く計画、頓挫。【4月3日(土)】

来月、宮城県の南に位置する白石市へ「お試し移住」へ行く計画を立てていたのですが、昨今のウイルスの影響で延期を言い渡されてしまいました。まあ、行政が関わっている制度ですから、仕方ないっちゃあ仕方ない話ではあります。

特にこれといった目的はないのですが、強いて言うなら「人間関係を広げるため」に白石へ行こうと思っていました。人間関係が、仕事や遊びのベースになることが分かってきたからです。実際、今日のランチタイムには、昨年の秋に知り合った宮城北部の自治体の皆さんとおしゃべりしまして、(おこがましいですが)交友できるのは素晴らしいことだなあと感じています。

とはいえ、お試し移住だけが白石および宮城南部へ行く手段ではありません。わざわざこの時期にそこまでして行きたいのかい、というような考えをお持ちの方には、正直僕から何も言えないのですけれども、東京のアパートで悶々としているのが嫌なのです。あれ気づいちゃった、これって、ただのわがままですかね。

ひとまず途方に暮れるタイムを経て、今はまた新たな計画を立てています。人間関係を広めることをベースに、もちろん故郷に迷惑をかけることはせず、新たな扉をノックしたいと思います。


思い悩んだら、やるべきだ。【4月4日(日)】

ここ2〜3ヶ月ほど、ずっと応募しようと思っていた求人がありまして、なぜか今日いよいよ応募してみようと思ったんです。なぜか今日、意を決することができたんです。しかし、なんとその求人、今日見たら失くなっていたんです。

ちょっとショックを受けました。実際に自分が興味のある仕事内容でしたから、その可能性が潰えたのかと思うと寂しいです。でもヘンな話、これから応募しようとしていた仕事の話でよかったなあとも思っています。たとえばこれが、もう二度と会えない人だったら、とか。二度と行けない場所だったら、とか。そんな風に考えると、胸を撫で下ろす部分もあります。

求人に応募できなかった最大の原因は、自信がなかったことでした。自分が採用される自信がなかったから、代表の方のSNSにいいねやコメントをしたり、登壇されたイベントで顔を売ったりして、人間関係の側面から入り込もうとしていたんです。でも結局、正面から入るべきでした。

やろうかやらないか、何か思い悩んでいることがあれば、絶対やるべきだなと、僕は改めて思いました。「やった後悔よりやらなかった後悔の方が大きい」とはよく言ったものですが、まさにそんな感じです。自分の心情や感覚に敏感かつ正直になって、今後はしっかり行動していきたいと思います。


実現アイデンティティ。【4月5日(月)】

最近、こんなことを思っています。

僕はヘンにまじめで、額面通りに言葉を受け取ってしまう癖があります。いやむしろ、言葉を生業にしているからこそ、表現や発言に対して敏感になっているのかもしれません。

「また○○しましょ!」と言われたら、まあもちろんヒトやコトにもよるわけですが、僕個人の熱量によっては“実現”させてしまいます。時間やら場所やら人やらをセッティングし、本当に「〇〇」をできるようにしてしまうのです。もはや、この“実現”まで持っていけることが自分のアイデンティティではないか、ぐらいの勢いまであります。

しかし、上記のツイートのように、相手は社交辞令で言っている可能性も十分考えられます。そんな方からしたら僕の“実現アイデンティティ”(?)は「うわ、ほんとにやんのかよ」「そういうんじゃないんだけどな」と思われていることでしょう。だから、やめてほしいのです。その社交辞令のせいで、僕がイタくなってしまうからです。笑

ひょっとしたら僕は、【「また○○しましょ!」から進展がない状況】に巻き込まれているのが嫌なのかもしれません。これを書きながら気がつきました。そしてこの感覚は、先日このnoteに記した居酒屋でラスイチを気にしてしまう感覚にも繋がっているような気がします。そうだそうだ、きっとそうだ。ムズムズしてしまうわけだ。ということで今後もnoteを書きながら考えながら、自分自身を知っていこうと思います。

15点だとしても、正しい。【4月6日(火)】

2017年に行われたMr.Childrenのデビュー25周年ライブツアーの映像を、最近また見返しています。聴き返しています。

youtu.be

セットリストの1曲目は、2000年に発売された9枚目のオリジナルアルバム『Q』収録の『CENTER OF UNIVERSE』。メガヒットを叩き出したシングル曲ではなく、いわゆるマイナーなアルバム曲をトップに持ってくるセンスには、とにかく脱帽です。東京ドームへ同ツアーを見に行き、これまでYouTubeだって何度も見返していますが、いまだに桜井さんの歌い出しで鳥肌を抑えられません。

『CENTER OF UNIVERSE』は、僕が大好きな曲のひとつでもあります。きょうは以下の歌詞が、スッと心に入り込んできました。

悩んだ末に出た答えなら 15点だとしても正しい

自分が導き出した答えが、たとえ社会の「正解」から離れていても「正しい」のです。僕は高校時代に、「正解」で生きることになんとなく違和感を覚えはじめました。そしてこの曲に救われた記憶がありますし、そのおかげで今は、自分の「答え」を信じ、フリーランスとして生きられているのだと思います。きょうはまた改めて、救われてしまったようです。最近忘れかけてた感覚でした。

ミスチルを詳しく知らない人に、僕から「詳しく聴いてみなよ」なんて言うことはできません。他人の人生に対して、そこまで責任を負う自信がないからです。だから、すでにミスチルを詳しく知っている人と語り合いたいと思っています。ふとした時に、スッと歌詞が心に入り込んでくる感覚は、きっと僕だけのものではないと思うからです。

オンラインという普通を、許したくない。【4月7日(水)】

あんまり積極的に書くことではないかもしれませんが、大衆居酒屋でお酒を飲んできました。めちゃくちゃ長いカウンター2人で座り、横並びで飲みました。

とりあえず感想をひとことで申しますと、非常にたのしかったです。なぜか30〜40代のおじさんばかりがお揃いの黒いTシャツを着て働いていたわけなんですが、彼らの「こなしている感」も含め、まず雰囲気が良かったと。そんでもちろん店内はザワザワしていて、傍からしたらこちらの胸がざわつくような関係性に見える人々もいて。いずれも、オンラインで飲んでいるときには得られない“味”でした。

そして何より、やはりオフラインのコミュニケーションはいいなあと思いましたね。ちょっと古臭さただよう自分がイヤなんですが(笑)、視線の配り方とか微妙な表情の変化とか、物理的な距離とか。ああそうそう、僕たちはこうやってコミュニケーションを取っていたんだよなあって、密かにしみじみしていた感じです。あ、ビールと焼き鳥の味も、シンプルにおいしかったなあ。

仕事の取材や打ち合わせがオンラインとなり、友人同士で画面を前にお酒を交わすことも“普通”となっていました。でもなんだか、この“普通”を許していいものかと、ややお酒が残る今の僕は考えています。慣れてしまったらそれまでなのかもしれませんが、なるたけ軸足はオフラインに置き続いていたいと感じたのです。


冗談が通じる存在。【4月8日(木)】

自分の「冗談」で笑ってくれる存在は、とても尊いなあと思います。それは男女問わず、です。まあ正直、相手によってその嬉しさに多少のちがいはあるのかもしれませんが、尊いことにちがいはありません。

冗談というのは、言った人と聞いた人が「冗談だ」とオソロイで認識しないと、笑えないのだと思います。だから笑い合えた瞬間は、その“歩幅”というか、“センス”がばっちり合いましたね、ということです。派生的に、いわゆるツッコミを入れてくれる人もいます。そんな人は、もう最高でしかありません。

別に出会った瞬間からオソロイでなくてもいいのですが、なんだかたまに、ビビっと通じ合える人にも出会うことができます。「しれっとボケる」ことを心情としている僕は(?)、そんな存在をかなり尊く思うわけですね。あ、僕のボケにも響いてくれるんだ、賢い人なんだろうな、なんて。それだけでいろいろ密かに感動しています。

もちろん僕も、冗談を受け取る側にいることもあります。おこがましい話ですが、好きな冗談とそうでない冗談があります。まあこれは完全に好みの話なわけでして、そう考えるとこれまたより一層、僕の冗談で笑ってくれる人を尊く思うわけですね。だからまあ結局ここまで引っ張りましたけれども(笑)、冗談が通じる存在を、大切にしていきましょうという話です。


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