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地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#40】僕が示すべき価値。

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どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

最近は地元・宮城へ旅をしまくっていますが、旅先でもnoteの更新は欠かしません。

連続更新して530日ほどが経過して、もう意地になっているんですよね。笑

今後もいのちあるかぎり、自分と向き合い文章を書き続けていきたいと思っています。

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メルカリでのコミュニケーションにて。【6月11日(金)】

メルカリで出品した、春や秋に使えそうな長袖のジャケットに「薄手ですか?」というコメントが来た。「薄手ですか?」だけである。

口調的に、薄手を求めていそうな感じがする。「薄手ですか?」だけでもそれだけの想像がつくのだから、言葉は面白い。しかし、その人にとって薄手かどうか、当然ぼくには知る由もない。ぼくの“薄手”とその人の“薄手”が完璧に重っていることはないだろう。これまた言葉の面白いところではあるが、ぼくは「感覚によると思うのでノーコメントでお願いします」と返した。

「はい、めちゃくちゃ薄手ですよ!」とでも返しておけば今ごろ売れていたのかなあ、なんて思う。あ、そのジャケットは今も絶賛発売中。着なくなった無印良品のジャケットだから、よかったらチェックしてみてほしい。まあリンクは貼らないから、なんとか見つけ出してほしい。みんなのアルゴリズムがいい感じで回ってほしい。

…いやいや、そういう話ではなくって。結局、まだ売れ残っていることは前向きに捉えたいと思う。目先の利益を欲するがゆえに、テキトーにコミュニケーションするわけにはいかない。向こうに商品が届いてから、「全然薄着ちゃうやないかい!」なんてトラブってしまったら一溜まりもない。なんだか、怪しさをはらんだ人のようにも思えたしね。「薄手ですか?」の一言だけだったけれども。

これからもなるたけ丁寧に生きていこうと、メルカリでのコミュニケーションを通じて感じたのだった。うす。

僕が示すべき価値。【6月12日(土)】

フリーライターとして、これまでクラウドソーシングを主な営業に使っていた。何か新たな案件ができないかなあと思ったら、ランサーズを開く。他にもWantedlyとかYOUTRUSTとか、ちょっと前まではbosyuなんかも見ていた。つまりは、インターネットを中心に仕事を探していた。

しかし、宮城を中心とした地方に知り合いが増えた今は、宮城の方々のために何ができるだろうと、頭と手を動かしている。彼らはどんなことを求めているのか、どんなことなら喜んでくれるのか。それこそが、近い将来宮城へのUターンを考えている僕が示すべき「価値」だと感じる。そしてそれは、必ずしも高度なスキルが必要とされるわけではない。大事なのは、とにかく現場で働くことだ。別に僕は、高額な報酬を求めているわけでもない。

顔の見えない“だれか”と繋がれるのは、インターネットの素晴らしいところだ。今さら改めて記すほどでもない、もう当たり前のこと。だけど、いやだからこそ、僕は顔の見える声の聞こえる関係性を大切にしていきたいと思っている。地方のために何ができるのか、地方のためにどんな価値を示すべきなのか。じっくり考えて素早く行動していきたいと思う。

珍道中の予感。【6月13日(日)】

明日、僕はまた宮城県へ行く。

なんとなく地元宮城へのUターンを考え出して、約半年。僕はどんどん地方の人々に惹かれ、そして現状に可能性を見出している。こんなご時世だけれども、月イチで東京から宮城の各市町村へ顔を出しているのだ。近い将来に見据える移住のために知り合いを増やしておきたい気持ち、またあらゆる環境や人に触れて今後の活動のヒントにしたい気持ちが後押しする。宮城で歓迎してくれる人の存在も、僕のからだを地元へ運んでいく。

とりあえず明日からは、利府町と富谷市、また角田市には行く予定だ。これまで行ったのは、東松島市、気仙沼市、南三陸町、栗原市、大崎市、丸森町。実家のある美里町を含めれば、我ながら結構な数の地域へ足を運んでいる。Uターンするまでに、宮城の全35市町村の人と知り合いになるのはちょっとした目標だ。もう旅人みたくなっている。

そしてこれまでは一人旅だったが、今回は関東の知人と宮城へ行く。仙台に住む共通の知人の家へ転がり込もうという魂胆だ。一人じゃないからまた新たな発見がありそうだし、珍道中になることも密かに楽しみにしている。とりあえず、寝坊しないように気をつけよう。

僕は明日、上野から出るはやぶさに乗る。


「健康」との距離感。【6月14日(月)】

あなたは今、健康ですか。そう問われたら、いったい何を思うだろう。

僕は正直「はて、健康。」といった具合だ。たまに会う学生時代の同級生たちとそんな話題も増えてきたような気もするが、20代の僕たちにとってそんなに馴染みのない言葉のように思う。いや少なくとも、ここまで大した病気や怪我もなく、恵まれた日々を送れている僕にとってはそうだ。それこそ、こんなに健康な身体に育ててくれた両親に感謝しなければならない。

今の僕にとって健康は、失ったときに意識する言葉である。つまり、自分が不健康になったとき。お腹を壊して横になると、急に“お腹の痛くなかった自分”をうらやましく思うだろう。それまで自分が健康であることなんて、ちっとも意識しないのだ。いわば、不健康が健康を供えてくれている。

中高年になった人々は、若い頃に比べたら健康を意識しているイメージがある。それはきっと、むかしに比べたら不健康が身近なものになってきたからと推測する。おそらく自分自身じゃなくても、家族や友人が不健康になったりするのだろう。僕もきっと、これからようやく健康との距離感がグッと近くなる人間のひとりだ。

不健康に苛まれることを覚悟しつつ、少しでも今、健康であることを噛み締めてもいいのかもしれない。

裏と表を見せる人か。【6月15日(火)】

「裏表のない人」というポジティブな表現がある。僕の辞書には【内面と外に現れたものが合致する】というニュアンスが記されていた。あえて個人的な感覚を書くと、“公私”で人柄が変わらないような、あまり他人に対する陰口を抱かないような、あるいは誰に対しても態度が変わらないような、そんな人柄だと思う。

ただ、その上で、僕はそのような人はいないと考えている。きっと実質的に「裏表のない人」なんて、この世に存在しない。誰もが心の中で考えると思うし、人によって接し方を変えるのは当たり前にすら思える。

つまり結局ポイントとなるなのは、裏と表を見せるかどうか、だと思うのだ。お酒が入ったからと言って、ここぞとばかりに愚痴をばら撒くのではなく、普段から感じていたであろう本音をこぼすのでもなく。大切なのは、そもそも裏表があるかどうかではなく、裏と表を見せてしまう人かどうか。僕はこれが人生において、小さいようで、大きな差を生み出す分かれ道なのではないかと感じている。

正解ではなく、答えがほしい。【6月16日(水)】

毎日更新されている糸井重里さんのエッセイ『きょうのダーリン』。ついつい写経するほど今日のお話が好きだったので、ちょっと引用させてもらいます。話題は「自己決定権」についてでした。

「じぶんで決めていいこと」がいっぱいあるのに、どうして、「みんなはなにを選んでいるのか?」とか、「世間で正しいと言われているのはどれか?」だとか、「じぶんで決めたことが正しくなかったら困る」だとか、うじうじと考えすぎているうちに、「じぶんで決めていいこと」がすり抜けて減っていく。じぶんで決めなくてもいいのは、楽なのかもしれないが、正解ばかりを気にしているのも、けっこう辛いものだ。

学生時代、僕は「正解」ばかりを気にする教育を受けてきました。今ではそれも両親や教師の愛情だったのだと理解できます。言い方をかえれば、人生において「不正解」を出してほしくなかったのでしょう。

しかし社会人となってからは「正解」ではなく、自分の「答え」を出すことに重きを置くようになりました。社会的なマルを前提に生きるのではなく、まずはしっかり自分で考えた答えを表すこと。ずっと感じていた“正解へのプレッシャー”も影響しているのだと思いますが、やっぱり僕も「じぶんで決めていいこと」を選択して生きていたいです。

たとえば今の学生たちは、どんなことを考えて生きているのでしょう。むかしの僕のように、周囲から宛てがわれる「正解」へ違和感を覚えていたりしませんかね。今の僕の「答え」は、そんなむかしの自分のような若い人の助けになるコミュニティをつくることです。さまざまな大人や生き方に触れられるコミュニティ。子どもだけでなく、大人にとっても学びや刺激になるコミュニティ。そんな場所を地元でつくりたいと考えています。

雨が降ったら傘をさせ。【6月17日(木)】

とてもおこがましい話ではありますが、そりゃあ生きていれば、個人的に合わないなあと思う人と出会います。何が“合わない”のかってのは、ひとことで言えば「価値観」となるでしょうか。それまでの経験や感覚によって表れる言動が、ちょっと自分の理解を超えているなあと思うとき、僕はちょっとしんどくなっちゃいます。自分の器の小ささは、棚に上げちゃいますけれども。

そんで合わないなあと思ったとき、解決方法はおもに3つあると思っています。ひとつは自分が相手を受け入れられるように変わること。また、ひとつは逆に相手が変わってくれること。そしてもうひとつは、お互いの関係性をなくすこと。これらが“合わない”をなくす方法だと思っています。

これまで僕は一貫して、相手に変わってもらうという選択肢を持てていません。自分が我慢するか、関係性を絶つか。ほら、雨が降ったら傘をさしますよね?空を見上げて「なんだよコノヤロー、濡れるじゃねぇか」って言ったところで事態は変わらない。傘をさすか、室内に身を置くか。外界を受け入れて自分にできることをやるのが、もっとも易しいと思うのです。

最近、また雨が降りました。ココロの傘を持ち歩くのも荷物なので、もう雨に当たらないようにしようと誓う自分がいます。変わらない自分に嫌気が差しかけ、でも何も間違っていないよなと宥める自分もいて。ただやっぱり、しっかり傘をさしてから、雨の後にかかる虹を楽しめるような自分でありたいとも思います。そのためにはもっと雨に顔を出し、打たれ強さを身につける必要があるのかもしれません。



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