0→1(ゼロカライチ)

地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#46】僕がnoteを書き続ける理由。

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どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

気づけばnoteの連続更新が570日を超えていました。それだけ内省と文章力の向上に励んできたということ。

まあ、ただただ好きで書いているわけでもあるんですけどね。

今週も週刊エッセイにお付き合いください🙇‍♂️

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変化があると見直せる。【7月23日(金)】

MacBookの調子がわるくなってから、約2週間が経過した。USBの部分に問題が生じており、満足に充電できない状態が続いているのだ。こうしてnoteを書いている間にも、ケーブルは挿しているのにパーセンテージが下落していく。ただ、スリープ状態なら充電が溜まるようで、なんとか仕事に穴を開けることなく、僕のメンタルと共にここまで生きている。

今月はなんとか乗り切って、来月の頭に修理へ出すつもりだ。1週間ほどは手元にPCがない生活となる。そして思わぬ出費が嵩む。しかし、背に腹はかえられぬ。

あえてこの状況をポジティブに捉えるならば、生き方を見直すきっかけを得られたのかもしれない。正直いまの僕は、MacBookが故障したくらいでソワソワしてしまうような経済状況だ。故障したぜラッキー♪と新品を即購入できるぐらいのフットワークを手に入れたい。財布のフットワークだ。つまりそう、現在の生活を繰り返すわけにはいかないのである。これはまあ、いわばMacBookが故障してくれたおかげで得られた感覚だ。



変化があると見直せるということは、個人的に今年に入ってから強く感じていることでもある。人間関係、自分の気持ち、時間の使い方など、ここ最近の僕は大きく変化しており、それに伴い今後の生き方を見直すことができている(実践できているかは別の話だが…)。そして今回のMacBookも、そのうちのひとつだったというわけだ。

自発的に変化を望むのか、受動的に変化を強いられるのか。そのパターンはどちらにせよ、新たなものを生み出す可能性であることに変わりはないだろう。今回は受動的なそれだったが、なるたけポジティブに、前を向いて生きていたいものである。


ふとした時のダッシュボード。【7月24日(土)】

今日もnoteの編集画面を開く。現在の時刻は23:45。特に書きたいことも伝えたいこともない。書かねばならないこともない。まあ、別に珍しい話ではない。

自業自得の極みではあるのだが、最近スキの数が著しく減っている。いやそもそも、ひとつでもいただけるだけ相当ありがたいのだが、なんとなくこう、いわゆるモチベーションが緩やかに下降気味である。もっとスキが欲しいな、なんて思うこともある。でも、あくまでココは自分の書きたいことを書く場所としているから、両方は得られないよなあとも納得する。そこらへんを上手に器用にできたらいいのだけれど。

そんなこんなで、ふとnoteのダッシュボードを開いてみる。そしたら驚いたよ。ここ1週間で僕の記事が開かれたのは446なんだって。ここ1ヶ月にすると、1837。これでも、なんだかほっこり嬉しくなっちゃった。僕の文章を読んでくれた人の数字。じつはそんなにいたのかって。インフルエンサーにとっては腰を抜かすほどの数字かもしれないけれど、僕にとって大切な方々がくれた数字であることは間違いない。

ダッシュボードを見てみたら、ちょっと元気になった。モチベーションが、また緩やかに上を向いたような感覚。創作は孤独だと思う。だから、なんとなく立ち止まってしまった感覚が芽生えたら、大切な人々が繋いでくれた数字をわざわざ見に行ってもいいのかもしれない。自分を上手に飼いならしたい。


等身大。【7月25日(日)】

自然を生きる動物には、威嚇という概念があるようです。弱肉強食の世界で自分を大きくあるいは強く見せ、長く生き残るためまさに命がけで行動しているのでしょう。そこまで動物に詳しくない僕でも、わりと容易に理解できる仕組みのひとつです。

僕たち人間にとっても、威嚇という概念はある気がします。決して命を落とすほどではありませんが、対峙した相手に見下されないよう自分を大きく見せること。たとえば仕事や恋愛なんかで、自分をより魅力的な存在に見せるために振る舞う人は、きっといます。少なくとも、僕がそのうちのひとりです。



そんななか、僕は最近「等身大」でいる人に魅力を感じます。より性格的な表現にするならば、自然体と言うべきでしょうか。誰を相手にしても、またどの環境に身を置いても、まったく態度が変わらないような人。威嚇とは真逆の概念をまとった存在です。

個人的に、なぜ「等身大」に魅力を感じるのかを考えてみました。するとそこには、主観と客観を共存させる賢さ、あるいは自分の弱さを認める強さがあるからではないかと感じます。できることを把握し、できないことを受容し、そして何を求められているのかを理解する。そんな魅力が、等身大には詰まっているのだと思います。

しかし、等身大でいることは簡単ではありません。そもそもの“スペック”がなければ、等身大で振る舞ったところで誰かに必要とされないと思うからです。そんなひとつの要素も、僕にとって魅力的に映しているのだとも感じます。



来年30歳を迎える僕の今の目標は、等身大で魅力的な人になることなのかもしれません。自分ができることとできないこと、また求められること、そして世の中の仕組みなんかも、なんとなくではありますが分かってきました。他人をムリに威嚇して怯える必要はありません。ただ、なるたけジタバタすることなく、どっしりと構えて生きられるよう、しっかり努力を重ねていきたい所存です。

地上波の解説。【7月26日(月)】

卓球の混合ダブルス決勝を見た。日本のペアがゲームポイント0-2から、見事逆転で金メダル獲得を決めた。もちろん…と言ったらアレだが、僕は普段から卓球をチェックしているわけではない。ひょっとしたら初めて、我が家のテレビは卓球を映したのかもしれない。



昨日の夜は、男子サッカーを見た。メダル候補の一角と言えるメキシコを相手に、2-1で勝利を収めた一戦。当然その試合も地上波で流されていたのだが、趣味で海外サッカーを15年見ている僕にとって、中継の解説者には物足りなさを感じた。まあ決して今回が初めてではないのだが、言葉選びを放棄するならば、まったく大したことを言わないのだ。

「素晴らしい得点ですね」「良いプレーだったと思います」「できるだけ失点したくはありませんね」。サッカーファンにとっては見れば分かること、あるいは当たり前のことを、“解説口調”の間(ま)で話してくる。いやいや、どう素晴らしいのか、どう良いプレーなのかを“解いて説く”のがあなたの仕事ですよと。目に見えない部分を言語化してくださいよと。前のめりなファンが集まるDAZNでもそんな解説者が見受けられ、僕はしばしば不満に近いものを感じている。



しかし今日、まったくの素人として卓球の中継を見た時に、元アスリートであろう解説のおじさん(笑)が「ナイス!」「よし!」「おしい!」と声を上げているだけで価値があるのだと気がついた。そうか、それだけのプレーをしているのかと、素人なりに感じられたのだ。

だから普段からサッカーに関心のない人にとっては、地上波の解説は価値のあるものになっていたのかもしれない。視聴者は普段からサッカーをチェックしているとは限らないのだから、“物足りない解説”でしっかりかたちになっていたのかもしれない。そんなことに気がついた。



とはいえ、サッカーに比べて卓球の方が、球種やポジショニングなどプレーの解説をしっかりしてくれていたような気もする。ひとつひとつのプレーに意味を感じながら、ちゃんと面白がることができた。思わずTwitterにも書いたが、水谷・伊藤とともに放送席のおふたりにもあっぱれであった。



魚は泳ぎ、鳥は翔る。【7月27日(火)】

短距離走と長距離走では、筋肉の使いかたが違います。頭の使いかたも違うのではないかと思います。オリンピックに出場するようなアスリートじゃなくたって、学生時代の経験がちょろっとあれば分かるようなことです。

もはや陸上競技に限った話でもないのですが、それぞれの競技に対しては、人によって「向き不向き」があるのだと思います。生まれ持ったからだの筋肉から、頭のなかにある「好き嫌い」も含めて、それぞれの人間に向いているものがあるのだと僕は信じています。そこからまた、「得意不得意」といった考えかたも生まれてきます。



たとえば今の自分は、長距離走に向いているのにムリして短距離走に挑んでいるような気がしてきました。具体的な内容がないのは申し訳ないのですが、なんだか今はそんな気分です。

もちろん努力によって、後天的に才能の花を咲かすことはできると思います。ただ、魚は海を泳ぐし、鳥は空を翔る。なるたけその人に適した環境を見つけ、そこで輝くのが自然で理想的な流れだと思います。あまりごちゃごちゃ悩むのは良くないと分かっていますが、自分の向き不向きをしっかり見極めて、活動していきたいものです。

なんだか今は、そんな気分です。

僕がnoteを書き続ける理由。【7月28日(水)】

最近じわじわと、noteのフォロワーさんが増えてきていて嬉しい限りです。ここまで至極「自分のため」に550日以上連続で書き続けているわけではありますが、やはり誰かに読まれることは嬉しいものです。ということで改めて、どんな想いでここを運営しているのかを書いてみようかと思います。自分で方向性を確認するという意味でも。

このアカウントのオフィシャルな目的は、おもに日々の内省と文章力の向上です。毎日23:59を締め切りとして、その日あるいはその時感じたことを言語化していきます。自分がどのような思考をたどったのか、またどういった順序で書いていけば自然な文章になるのかを、日々鍛錬しているような感覚です。…いや、嘘です、鍛錬という意識はあまりありません。単に書くことが好きだから、ここまで続けられているのだと思います。

僕が勝手に心の師匠に据えている好きな“伝え手”は、コピーライターの糸井重里さん、ライターの古賀史健さん、そしてシンガーの桜井和寿さんという3名。糸井さんと古賀さんからはそれぞれのエッセイを、桜井さんからはMr.Childrenなどの楽曲の歌詞を享受しています。彼らは、多くの人が経験しながらも見落としているような感覚に言葉をつけることが、本当に秀逸だと思います。ああ、そういうふうに世界が見えているのかと、僕はしばしばはっとさせられます。なんで僕が書けなかったんだろうと、悔しかったりもする。そして名もなき感覚が認められるようなその「はっと」の瞬間が、たまらなく好きなのです。

だから僕も彼らのように、日常の何気ない思考や感覚、感情などを文字にしていきたいと思っています。noteの毎日更新を始めたのは1年半以上も前になっていますが、これは始めた当時から心にしまっている感覚です。正直、ここまで自分が納得いく記事を毎日書けているわけではありませんが、いや書けていないからこそですね、今後もいのちある限り、文字を紡いでいこうと思っています。

しあわせの赤い通知。【7月29日(木)】

ここ最近、ふとiPhoneを開くとFacebookのアプリに赤いバッジがついていることが増えた。「今日は〇〇さんの誕生日です!」や「〇〇さんから△△(イベント)への招待が届きました」など、毎日なにかしらの通知が届く。僕自身の投稿に対して「〇〇さんがリアクションしました」と伝えられることもある。

昨年の秋まで、こんなことはなかった。FacebookはいわゆるROM専というか、一応アカウントは作ってみたけれども本格的には稼働していないような。たしか大学生の時に登録したんだっけかな。では昨年の秋に何があったのかというと、地域に興味を持ち率先して関係性を作り出したこと、である。

地域の人々の主要なSNSは、なぜか(笑)Facebookだ。全員が実名だからかイベントページを作成できるからか、その理由では定かではない。しかし、地域の情報はFacebookで“シェアされがち”であり、僕も地元の宮城の人々とFacebookを通じて関係性を広げられている。だから僕も流れに乗って、これまで一切投稿などしたことなかったが、ここ最近は自分の活動を示し始めてみた。

今では毎日届く通知は、とてもしあわせなものだなと思う。こんなにも自分と繋がってくれる人がいるのかと実感するし、名前も顔も知っている方々から「いいね」をもらうと、嬉しさが込み上げてくる。離れて暮らしている人がほとんどだから、特にそう。これから地方へ活動の拠点を移すにあたって改めて、iPhoneに映る赤い通知を大切にしていきたいと思った。



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