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地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#47】生き方を見せるコミュニティを。

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どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

一応毎週金曜日に更新することにしている「週刊エッセイ」。今週はちゃんと金曜日の夜に投稿できました。

よくできました。自分。The 自己肯定感。

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生き方を見せるコミュニティを。【7月30日(金)】

ひらがなを習い始めた小学1年生のころ、世の中の大人たちは全員「字がきれい」だと思っていた。もはや大人になれば誰だって、オートマチック的にそうなるのだと思い込んでいた。だって、当時の担任の先生が、ものすごくきれいな字を黒板に書いていたのだから。自分も、そしてこの教室にいる同級生たちもみんな、いずれきれいな字を書くんだろうなあ、なんて。そんなことを端っこの席で考えていた。

しかし、結論として、大人になれば「字がきれい」になるということはなかった。いま、自分も含めて、そうでない人はたくさんいるように思う。まあわざわざ大人にまでならずとも、小学6年生のときには分かっていた。だって、当時の担任の先生が、そうでなかったのだから。

けれども、だからと言って別に、大人に対して失望したとか嫌いになったとか、そんなネガティブな気持ちはなかった。ただびっくりしただけ。なんだそうか、全然そうでない大人もいるのかと、きっと自分の視野の狭さ、この世界の広さに驚いただけだ。



今では、字がきれいな人を魅力的に思う。そうでない人の存在を知り、そして認めた上で、あわよくば自分はきれいな字を書いていたいと思う。マクドナルドのチキンマックナゲット。子どもの頃はバーベキューソースしかなかったけれど、今ではマスタードソースで食べたいと思う。BBQの美味しさを踏まえて、僕は黄色いソースを食べるんだ。鼻にツンと抜ける風味がクセになるねえ。



選ぶこと、あるいは望むことは、その人の個性のひとつにもなる。いわゆる自分らしさ。アイデンティティ。つまりなんというか、僕はたとえば今の学生たちに、より多くの生き方の選択肢を見せる機会をつくりたいと思う。思えば、そんな学ぶコミュニティをつくりたいんだった。おとといの糸井重里さんのエッセイを読んで、改めてそう感じた。より多くの可能性を知った上で、その中から選んでいく面白さを示していきたいと思う。

コミュニケーションというパズル。【7月31日(土)】

コミュニケーションはパズルのようだと思っています。たとえば、会話。話し手はある程度、聞き手からの返答という“ピース”を予想しているものだと思っていて、その想定にぴったり当てはまるのか、そうでないのか。もはや想像を超えて、よりおもしろい“画”を見せてくれるのか。そのパズルで、いわゆる相性が測れるのではないかと思います。

聞き手としていまいちなピースを返したとき、僕は結構反省してしまいます。「自分にはコレしか浮かばんかったな…」「相手が求めていたことってなんだ…?」なんて。その反省が次に活かされることもあれば、その人に対しての想いが最後になってしまうこともあります。いわゆる絶交というやつでしょうか。あんまりこの歳になって、縁を切ることとか極力避けたいと思ってはいるのですが。

ただどうしても、難しいパズルに直面することはあります。いやむしろ、普通に生きていればそっちの方が多いような気がします。幼稚園や児童館とかにある、めちゃくちゃピースの大きなパズルがありますよね。あれぐらいイージーなものなら、ちょちょいのちょいなんですけどね。

コミュニケーションが上手な人って、きっと相手にピースを選ばせるのが上手なんだなあと思います。ピースがでかいパズルというか、実際に盤面に置かずとも、その位置だと認識できるというか。でもなあ、妙なこだわりを持ったちっさいちっさい自分のパズルを、バチっとはめてくれる人が時折現れたりする印象もあるんだよね。その快感というか感動も、ちゃっかり味わっていたいんだよなあ。

失敗する練習。【8月1日(日)】

吉本興業所属の東野幸治さんは、後輩芸人の前で失敗の練習をするために、ゴルフへ行くそうです。いや、ちょっと語弊がありましたね、それもひとつの理由として、コースを回るのだそうです。『オードリーのオールナイトニッポン』で、若林さんが明かしていました。

個人的に、同番組はたまにこういった「ほほう」と思える瞬間が来るのも好きなのですが、今回は「失敗する練習」。なんだか理解できるような気がしました。



これまで、キャラクターやプライド的に「失敗できない環境」を経験してきた方は少なくないと思います。まあ、僕が地元でそうだっただけなんですけれども。ヘンに優等生キャラになっちゃって、“フリオチ”で言えば、完全にフリの立場。オチ側の人間にツッコんだりもしちゃって、気づけばそう簡単に失敗できない環境にいました。

だから年齢を重ねてから、特に社会人になってからは、それまでのプライドを捨てるのに苦労しました。まあ、たかが知れたもの、ですけどね。なかなか「できません」「わかりません」と言えなかったのです。どうやら、社会で愛されるのはあの時のオチ側の人間というか、素直に自分の弱さを認められてこそ、より多くの可能性が広がるのではないかと感じていました。いや、今でもそう感じています。



若林さんも「なるほどと思った」と言った東野さんの感覚は、僕の中にもあるような気がします。特に歳下の前で、できない自分を見せること。スポーツというルールが統一された世界だからこそ実現できるのだろう、なんてことも若林さんはおっしゃっていましたが。以前から興味があったゴルフをいつかプレーする際には、失敗する練習もかねて、カートを乗り回せればいいなと思いました。

褒められて、自信。【8月2日(月)】

誰かから褒めてもらえたことって、なかなか忘れられません。たとえば僕は、むかしコピーライターの師匠に作成した資料を、結構褒められました。なかなかコピーが褒められることはありませんでしたが(笑)、「良い資料だね、ありがとう」といった言葉が未だに忘れられません。きっとその言葉の主は、とっくに忘れているのだと思うんですけどね。

ただ、僕にとっては、今でもやっぱりありがたい言葉になっています。俗に言う「自信」という感覚に近いのでしょうか。今の自分を支えてくれている、そんな記憶として頭の中にあります。

だから僕は、誰かの良いなと感じたことは、なるべく声に出して伝えようと思っています。他の誰かにも自信のような感覚を身につけてもらえたら嬉しいですし、またお互いの関係性も深められたら最高じゃないですか。クールぶって黙っていたところで、何にも伝わりませんからね。分かってるかい、過去の自分よ。笑

自分がされて嬉しかったことを、誰かにもする。自分がされて嫌な思いがしたことは、誰にもしない。小学校の道徳の教科書にあるような感覚ですが、やはりこれこそ真理だよなあと感じる、今日のこの頃です。

あ、とりあえず野球勝ってよかったね。

いかに転ばぬかではなく、いかに起き上がるか。【8月3日(火)】

小さい頃、僕は中途半端に勉強ができてしまったから、両親に「優等生コース」な人生を夢見させてしまったように思う。それはつまり、学校の成績は常に上位で、素行の悪さは一切なく、ゆくゆくは大企業や行政に勤め続けるような。公務員を全うした父親ならいかにも抱きそうな、そんな生き方である。

だから、“いかに転ばないか”という教育を受けてきたように感じる。しっかり勉強しろよと、部活に行けよと。あんまり具体的な例は浮かばないけれども、なんとなく「できない」と言えない空気が両親からは感じられた。まあ、僕の性格もあるし、コミュニケーションを上手にできないお互いの責任もあるのだけれど。

そして結果として僕は、高校からストンと成績を落とした。今は、大企業に入ることは叶わず、そもそも行政を目指すことはなく、フリーランスな生活を送っている。つまり「優等生コース」とはかけ離れた生き方をしているわけだ。もう、真逆と言ってもいいのかもしれない。しかし、これはこれで全然わるくない。むしろ自分が望んで選んだ道。アイデンティティすら感じている。



そんなこんなでこれまでを振り返ると、“いかに転ばないか”よりも“いかに起き上がるか”という教育が大切なのではないかと思う。僕は今まで、社会人生活は特に、もう転びまくってきた。ゴロゴロと転がっていたかもしれない。でもその度に立ち上がって、ときにはヨロヨロになりながらも、なんとかここまで生きられている。

僕に“転ぶ痛み”を味わってほしくないという、両親からの愛は分かっているつもりだ。彼らにも不安はあっただろう。でもそれを踏まえても、僕は“起き上がる強さ”みたいなものを教えられる大人でありたい。できない自分をしっかり認めて、じゃあそこから、どういう手を打っていくか。他人を頼ってもいい。自分を成長させてもいい。一度転んでから、むしろ能動的に転んでみてから、拓けていく世界はきっとあると思うのだ。

自発的に新たな環境へ。【8月4日(水)】

昨日は【「都市→地方」のキャリアの接点のつくり方・育て方】というオンラインイベントに参加しました(詳細は下記リンク)。個人的に好きな滋賀県のとある企業の社長さん・社員さんが登壇されることをイベント当日に知りまして、僕は東京オリンピックの男子サッカー準決勝を録画して、zoomを開きました。

smout.jp

結果として、参加してめちゃくちゃ良かったです。スペイン戦の120分を追っかけ再生する価値がありました。笑

前述の通り、僕が登壇者のファンだったということもあるのですが、今後都会から地方へ活動を移すにあたってのヒントをたくさんもらえたような気がします。社長の北川さんはUターンして起業された方でして、滋賀のヒト・モノ・コトを繋ぐ役割を担う人物。宮城へのUターンを見据える僕にとっては、有益なアドバイスをいくつもいただきました。その具体的な内容は、まあちょっと待っていてください。

あとこういったイベントは、参加者同士で交流できるのがありがたいですね。今回なら地方での生活に興味があったり、滋賀に何らかの想いを抱いていたり。境遇や価値観に似ている部分があるので、自然とお近づきになれます。きのうもイベント後、1人の参加者とFacebookで繋がることができました。

やっぱり、どんどん自発的に新しい環境へ飛び込んでいくことは大切ですね。知識や人脈を広げられて、身をもって感じました。きょうもまた地方のオンラインイベントに参加しまして、とりあえず今週はあと3つ、参加を予定しています。スケジュールの許す限り、いろんな人とお近づきになりたいと思っていますよ。

ストックは作れない性格。【8月5日(木)】

「noteの連続投稿をしてみた」的なほかの方の記事を読んだ。そこには「予約投稿が最高」と書いてあって、「記事のストックを溜めておくことが大切だ」みたいなことが書いてあった。僕はなんだか関心していた。ああ、そんな考え方があるんだなって。

もうすぐ600日連続更新が見えてきた僕は、基本的に記事を溜めず、その日の記事をその日の夜に書いている。この記事だってそう。ごく稀に夜に時間を取れないというスケジュール的な例外はあれど、たとえば記事をまとめて“作り置き”するようなことはしない。

その理由はおもにふたつあって、ひとつは毎日書くという習慣が欲しかったから。まとめて書いてしまっては、すなわち書かない日も出てきてしまう。僕にとってnoteの更新はハミガキのようなもので、「よし今日は入念に磨いたから明日は磨かなくてもいいだろう」なんてことはないだろう。24時間ごとに書いていくから、習慣になるしスキルになると考えている。

そしてもうひとつは、シンプルに僕が記事を溜められないからだ。そんな一気にネタは浮かばないし、複数の記事を書く気力もない。またこのエッセイ形式には、“鮮度”が大切だと思っている。ほら、たとえば無性にマックのフライドポテトを食べたくなる時もあるし、スタバのフラペチーノを飲みたくなる時もあるだろう。そんな“衝動”が記事を作り上げてくれると思っていて、現に僕は今、ネタが浮かんだんだけど鮮度が足りなかった下書きを多く抱えている。当時は咄嗟にタイトルだけメモしたんだけど、それだけじゃ書ききれなかった。今はもう、メモすることすらやめた。

そんなこんなで、僕は今後も基本的にはストックを作らず、1日にひとつずつコツコツと更新していこうと思う。もちろん、ストックを溜める人がダメだとか、溜めない人がイイねとか、そういった話ではない。それぞれの人にあったスタイルで、noteを楽しんでいこうぜという話である。

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