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地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#53】心も支えるサービスエリア。

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どうも、ぼーの改め大村昇(@nobo0630)です。

最近、地方での活動を本格化するため、一部SNSを本名に改名しました。未だにちょっとだけソワソワします。

そして、1ヶ月以上ぶりの『週刊エッセイ』です。

毎日noteに書いているエッセイをまとめることで、再利用というこの企画。

あーなんか、結果的にSDGsみたいでいいですね。気づいたら時代の潮流に乗ってました🙄

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勇気ある共有。【10月29日(金)】

きのうのメンタリングに関するnoteを、同じコミュニティのみんなへSlackで共有してみた。すると、すかさずスタンプやコメントで反応をいただけた。とても温かく、ありがたい環境である。ただ、そこにちょっと気になる感覚があった。とある方の、「勇気あるすばらしい共有をありがとう」というコメントである。

勇気ある共有。うん、そうかそうか。どうやら僕が記録したこと、あるいは共有したことが、「勇敢なもの」に映ったらしい。いや、ひょっとしたら「無謀なもの」と捉えられているのかもしれない。ちなみに僕には、そんな“思い切った”ような感覚は一切なかった。ただいつものように、その日のエッセイとしてnoteに記し、他の人にとっても悪いものじゃないと思えたから、共有した。ただそれだけのことであった。

だから、違和感がすごい。はっきり言って、気持ちがわるい。いま、僕は何かを“やらかして”いるのだろうか。どこか、大切な部分を見落としているのではないだろうか。何を以て「勇気ある共有」となったのだろう。

いや、ポジティブに捉えてみよう。そのコメントの主は、そもそも自分の思考を表明することに対して消極的なため、僕の姿が勇しく感じられた。そういった意味での、勇気。これならなんとか、合点がいくだろうか。自分の普通は、他人の普通ではない。道徳の教科書にでも、そんなことが書いてあったような気がする。

まあいずれにせよ、リアクションをいただけることはとてもありがたい。あのコメントがあったから、僕はまた一つ、自分と向き合えた。今日のnoteのネタも仕入れることができた。その真相は今後改めて確かめるとして、今はひとまず感謝である。

モネちゃんのいない生活。【10月30日(土)】

NHK連続テレビ小説『おかえりモネ』が、きのうで最終回を迎えた。宮城県を舞台とした物語ということで、僕は今後のまちづくりへのヒントを得られるのではないかと見始めたのだが、思いのほかハマってしまった。週5日の15分間だけだが、いや15分間だからこそ、毎日パクパク味わえて習慣になっていくんだなと理解できた。そりゃモノによっては、社会現象にもなるわ。

一応詳細なネタバレは避けるが、ネットニュースでも報じられていたように、『おかえりモネ』というタイトルをがっつり回収。僕はテレビの前で「そういうことね〜」と頷いていた。あーでも、ひとつだけ言わせてもらうと、浅野忠信さん演じる新次の姿には結構グッときた。あのシーンがいちばん来たかもなあ、モネちゃんを通して。

明後日からは、そんなモネちゃんのいない生活だ。平日の15分間がふわっと浮いたような感覚。きっとこれを“モネロス”と呼ぶのだろう。さっそく次の連ドラが始まるみたいだけれど、そういうことじゃないんだよね。その穴を埋め合わせようったって、決してなんでもいいわけじゃない。なんだか、人間関係みたいだね。

地元を飛び出し、東京で学び、そしてまた地元へ帰る。モネちゃんには、ちょっと自分と似た境遇を感じていた。だからこそ、今回の喪失感も小さくないのかもしれない。彼女は気仙沼市で生まれ育ったみたいだからね。さて、僕もモネちゃんたちに負けぬよう、しっかり地元で自分を活かしていこうと思う。しっかり利益を生み出そうと思う。笑

「書く」を考える。【10月31日(日)】

きょう、「ライターの息子の作文力・国語力が低い(泣)」という、とあるライターのツイートを見かけた。そこでふと思った。作文力ってなんだろう、国語力ってなんだろうと。なんとなくだけれども、それは単純に「書く」ってだけの話ではない気がしている。もっと根幹的な「考える」や「感じる」であると思う。

良い料理には良い食材が必要なように、良い文章には良い「感覚」が不可欠だ。それはたとえば、流れゆく日常の中で何を見て、何を感じて、何を考えるのかということ。もっと言うと、どこへ行くとか誰と居るとか、誰が好きだとか。そういったところから、もうすでに「書く」は始まっているような気がする。

これは今の僕の実体験からも言えることだと思っていて、たとえば家に引きこもっている時よりも、宮城県の各地を廻ってさまざまな人に出会った時のほうが、すらすらnoteが書けたりする。比較的って話だけれども。もちろん家の中にいたって、今日みたくSNSを通じて「感じ」て、「考え」られたりもするのだから。

ただ、もしこれから子どもの国語力を鍛えようとなったら、僕は「感じる」や「考える」に取り組ませるんだろうなあと思う。そして彼らにいちいち「どうだった?」って尋ねたい。そのインプットとアウトプットの積み重ねが、作文力とか国語力になるんじゃないのかな、なんて。

とか偉そうなこと言ってるけど、僕はこの「感覚」、ちゃんと鍛えられているのかなあ。今後あらためて、自分の「書く」のルーツを考えてみても面白いかもしれない。

自分の宿命。【11月1日(月)】

先月の移住イベントで出会った、福祉の業界で働く方と飲んできた。その方は先天性の障害を持った妹の影響で、幼い頃から福祉と近しい生活を送っていたという。そして今まで現場職から事務職、コンサル職などを経験し、今後も同じ業界で生きていくつもりだと言っていた。

僕なんかは、自分の「好き」や「興味」を叶えたいと思って生きている。そのため、そんな「やりたいこと」と社会が「求めること」のバランスに苦しみがちだ。今もなお、自分のあるべき姿を模索する日々である。

しかし、その方は「自分の好きなものが特にない」という。驚いた僕が詳しく尋ねると「福祉に携わり誰かを助けることでしか、自分に価値を感じられない」と言ったのだ。つまり、福祉業界に尽力することこそが、幼い頃から妹と過ごしてきた自分の“宿命”だと捉えているようだった。

自分にはない生き方だから、非常に興味深い話だった。あなたは、自分の宿命を感じたことがあるだろうか。いつまでも「好き」や「興味」と向き合っていたい僕は、そういった生き方をしている人もいることも念頭に置きながら過ごしていたいと思った。

久しぶりの後悔。【11月2日(火)】

後悔なんて感覚は、抱えていたって仕方がない。間違った選択をした自分をいくら悔やんだとて、その過去は変わらないからだ。だからここ最近、特に社会人になってから僕は、「今」を良くすることにフォーカスして生きてきた。そもそも、自分に後悔を植えつけないような生き方も心がけてきたつもりだ。

しかし、今まさに「あんな選択しなければよかった」と後悔してしまっている。こんなにも憂鬱な気分になるのは、結構久しぶりかもしれない。ということで今回は、決して記念じゃないんだけれども、この気持ちや感覚を記しておこうと思う。ちなみにこれが、初の有料記事となる。ある意味ありがとう、後悔よ。

<※以下、有料エリアとなります>

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マンネリを解消するために。【11月3日(水)】

新幹線でPCを叩いていたら、なんだか気持ちわるくなってきた。このままではいかんと、仕事を切り上げ、今はiPhoneでnoteを更新している。早く外の空気を吸いたい。



マンネリズムという言葉がある。人に対するものならそれは、倦怠期なんて呼ばれ方もするのだろうか。新鮮さが感じられなくなり、呆れて嫌になってしまうような感覚である。



僕は今月も、宮城に向かっている。先月と同じく実家に滞在させてもらいつつ、今回も県内のさまざまな人に会ってくる予定だ。明日は早朝から、気仙沼市へ連れてってもらうことになっている。

この宮城へUターンするための活動は、徐々にかたちになりつつある。人脈や仕事を広げて、地方や自分の可能性も探って、我ながら“稀有め”な生き方をさせてもらえている。地域おこし協力隊にはなるもんかと、やたら意地になっている自分も引っくるめて、この「模索」を楽しめていると思う。

ただ、マンネリが来ていることも否めない。ここ1年ほど、あらゆる場所へ行き多くの人と知り合えてはいるが、地域課題の深いところまで入り込めてはいない。つまり、まあそりゃそうだろって感じだが「ヨソモノ」感が漂い続けている。自分はこのままでいいのかと、よく不安にもなる。

とはいえ、である。そんなジタバタしたとて、物事は良い方向に傾かない。まずは今の関係性を見つめること、あるいは何か変化をもたらすことで、道は拓けていくだろう。頭だけでなく、手足を動かすアクションが大切だ。だからこそ、僕はまた地元に帰ってきているのだ。

心も支えるサービスエリア。【11月4日(木)】

震災から復興した「三陸自動車道」を通って、宮城県気仙沼市まで行ってきた。地域おこし協力隊としてUターンして、卒業後の今なお地元の気仙沼で活躍しているお三方の話を聞くためだ。これから同じ境遇を辿る可能性のある僕は、現役の協力隊や自治体職員にちゃっかり混ざってイベントに参加してきた。

気仙沼までは、宮城県を拠点に起業や協力隊の支援事業などを行っている実業家の車に乗合させてもらった。通称“三陸道”で「こないだ気づいたんだけどね〜」と、その方が何気なく話し出す。

「三陸道ってほぼ無料で料金所がないから、近くに道の駅が作られていたりするのよね。そしてその施設は、高速道路のサービスエリアみたいに使われてるってことに気づいたの。三陸道ってサービスエリアがないからさ。でもそうすると、道沿いにはトイレやガソリンスタンドがないから、この前“エンプティー”のランプが点いた時めちゃくちゃハラハラしながら走ったよね〜(笑)」

なるほどなあ。サービスエリアは休憩所や食事処、大きなところでは観光地としても捉えられがちだけど、まずそこに在るってだけで、決して少なくない価値を提供していたようだ。つまり、サービスエリアが人々の心も支えていたということ。今日は参加したイベントに限らず、勉強になる1日だった。


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