0→1(ゼロカライチ)

地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

【Sponsored Links】

【週刊エッセイ#54】僕なりのフットワーク。

f:id:nobo0630:20211113170012j:plain


どうも、ぼーの改め大村(@nobo0630)です。

今週もあっという間に1週間が経過し、慌てて「週刊エッセイ」を更新しています。

まあ、いろいろ大変ですが頑張っていきましょう。🙄

▼noteではエッセイを毎日更新中▼
note.com

昭和のジジイのTwitter。【11月5日(金)】

「やっぱり日本人はマスクするしワクチン受けるし、真面目だもんなあ」「あとは外国人をどうするかだよなあ」

父親が芋焼酎を飲みながら、NHKのニュース番組に向かって何やらずっと呟いている。母親はキッチンで食器を洗っていて、僕はテレビとやや離れたダイニングテーブルに座っている。誰が聞いているというわけではないが(ひょっとしたら聞いてほしい?)父は1人で呟くことをやめない。めちゃくちゃ喋っている。

ふと、それは彼にとってSNSと同じような行為であると気づいた。はっきり誰か聞いてもらいたいわけではないが、自分の意見を示したい。そしてあわよくば、何らかの反応をもらいたい。典型的な昭和のジジイでスマホを使いこなせない彼は、毎晩ああやって自己顕示欲を満たしているのだろう。

僕が毎日noteを書くのなら、彼は毎日テレビに向かって喋る。時に1人で喋っていてうるさいなと思っていたけれども、そういうことなら仕方がない。まだ“リプ”を送るところまでは対応できなさそうだが、とりあえずその“タイムライン”を止めないように見守っていよう。

オリジナルの「いいね」を信じて。【11月6日(土)】

SNSやあらゆるサービスに対するレビュー機能がふつうになり、簡単に“自分以外”の意見を知れる世の中になった。いわば口コミとして人気に火がつくのは日常茶飯事で、それとは反対に評価が下がることもある。真っ当なサービスが多くの支持を得るような、便利な世界になった。しかし一方で、自分オリジナルの意見は持ちづらくなった時代だなあとも思う。

先日『関ジャム』のゴールデンSPを録画してみた。同番組のちょっとしたファンとして特に番組欄も読み込まずに録ってみたのだが、その内容は「プロが選ぶ豪華アーティスト9組の最強ベスト10」だった。なるほどなるほど。関ジャムが誇る音楽業界とのコネクションを駆使しつつ、ゴールデンらしいポップな企画にしようと。スタジオのゲストも、幅広い年齢層を意識したような人数とラインナップだ。

「豪華アーティスト9組」の中には、僕が大好きなMr.Childrenも含まれていた。しかし、録画した番組を見始めるにあたってあまり良い感覚はなかった。当然、すでに“僕なりのミスチルランキング”はあるわけで、プロが選ぶという主旨は理解できても「うるせぇ」と思う自分がいたからだ。普段ミスチルを聴かない人もターゲットだと分かっていても、僕なりのそれが侵されるようで怖かった。まあ、ある程度ココロの距離を取りながら、結局ぜんぶ見たのだけれど。

きょうのSNSのタイムラインにも「〇〇さんが『いいね』しました」と、自分以外のセンスが流れている。それでも、やはり自分だけの、オリジナルの「いいね」を信じていたい。やや大げさな着地かもしれないが、これは言うまでもなく自分の人生だからである。

落ち込みの話。【11月7日(日)】

自分にとって望ましくない、予想だにしないことが起こったとき、多くの人は落ち込む。「凹む」とも言い換えられる。だからきっと、すべての事柄に対してフラットに構え、そしてより多くの想定を立てられれば、人は落ち込まずに済むのだろう。まあ、極端な話だけれども。

劣等感という「落ち込み」がある。優れた人と比べた自分を、卑下する感覚。僕はこれまで、何度経験してきたか分からない。そういえば今日も陥ったっけなあ。

でもこれって考え方を変えれば、他人より劣っている自分を望ましくないと思っているということ。あるいは、他人より劣っている自分を想定できていないということ、ではなかろうか。というかこの記事上では、そういうことになる。

特に後者が気になる。他人より劣っている自分なんて、そんなのあり得ないと思っているということだろうか。自分のことだけれど、どれだけ傲っているのだと驚かされる。そんなの当たり前だ。テレビを点ければYouTubeを見れば、自分より優れている人なんて数え切れないほどいる。というか、そもそもこうして比較することっていかがなものかとも思えてくる。

落ち込みが力になるというタイプの人もいるだろう。ただ、僕はどちらかと言うと、落ち込むとどんどん眉間にシワがより、目の前のことが手に付かなくなってしまうタイプの人間だ。自分を上手に飼い慣らしながら、落ち込みとも向き合っていたい。つまり、まずは「自分なんてどうしようもない人間だ」と、変に期待しないところから始めてみようと思う。

おもしろアンテナ。【11月8日(月)】

小さい頃から、ぼそっと小ボケを言うのが好きだ。決して教室のみんなに自分の価値を知らしめるのではなく、周りの2〜3人に聞こえるボリュームで、そしてあえてマイノリティというかコアな視点で自分なりの「おもしろ」を発揮しようとする。結局この“プレースタイル”は、大人になった今でも変わっていない。フィールドが教室から居酒屋になったぐらいである。

自分なりの「おもしろ」を笑ってもらえたときは、いつだって何とも言いがたい嬉しさがこみ上げる。つまりそれは、相手から「理解」や「許容」をいただくことであり、あるいは自分と「共有」するということである。そして気づけば僕は、この笑ってもらえるかどうかを、自分と他人の相性を測るひとつのバロメーターに据えていた。

自分の「おもしろ」を理解してもらえるか。反対に、他人がどんなことを「おもしろ」だと思っていて、自分は共有できるのか。いつの間にか、そんなところにアンテナを張る体質になっていたのだ。

なんてことを、“そうでない人”の指摘を受けて気づかされた。ふつうって恐ろしい。自分以外の人との時間は、これだから面白いね。

変化の予兆。【11月9日(火)】

いま、僕は「東京に戻りたくない」と思っている。地元の宮城県を舞台とした“地方での暮らし”に興味を抱き、首都圏と頻繁に行き来するようになってから1年。正直、こんな感覚は初めてである。

約1週間の宮城滞在を終えて、現在は東京へと戻る新幹線の中。気仙沼や登米、石巻、栗原など、今回も県内の各地へ足を運んでさまざまな人に出会った。「再会」も少なくなく、着実に関係性が深まっていることを嬉しく思う。なお、再来週もまた宮城へ、今度は東松島へ行く予定だ。

東京へ戻りたくない理由は、どうせまた近々宮城へ来るから、ではない。どちらかと言うと「あーあもう戻っちゃうのか」という感覚。つまり、宮城を離れることが「さみしい」のだ。もっともっと、魅力ある宮城の人々の近くにありたい。冒頭の繰り返しになるが、こんな感覚は初めてである。

いよいよ正式なUターンが近づいているような気がする。もちろんそれ自体が目的となるのは危ういことだが、新たな生き方へ変化する予兆が芽を出したのではないだろうか。そんな気がしている。今日はそういうことにしておこう。

僕なりのフットワーク。【11月10日(水)】

地方での活動に目覚めた約1年前から、地元の宮城県と東京のアパートを行ったり来たりしている。これまでは月イチのペースだったが、最近は気づけば4週間で3度も宮城へ行く予定も立てていた。そんな生活をしていると「フットワークが軽いね」と声をかけられる。他人からしたら、僕はどうやらそのように映るらしい。

自分のフットワークの軽さを支える要因はおもに2つあると考えていて、ひとつは職業的要因。フリーのライターとして活動している僕は、PCとネット環境さえあれば、比較的どこでも仕事ができる。オフィスを持たないことが「どこへでも行ける」という感覚を生み出してくれているのだろう。

そしてもうひとつは、精神的要因。今回の記事を書くにあたり“フットワークが重い人”のことも少し考えてみたのだが、おそらく彼らは「自分が得をできるか・損をしないか」に悩んで、結局行動に移せないのではないかと思う。その点、僕は地方へ行くことを「得しかない」と思い込んでいる。もちろん金銭や時間など失うものもあるが、それ以上に人との出会いや関係性の熟成など、得られるのは価値の高いものばかりだ。

また「自分が動くことで道が拓ける」という感覚を備えていることも大きいだろう。社会人2年目に自分の意思で上京し、環境や人脈を変化させる大切さを実感できた。ひとり部屋で悩んでいるヒマがあったら、身体を動かして新たな刺激を取り入れるほうがよっぽど良い。もう「自分が動かないと仕方ない」まで考えているのかもしれない。

ちなみにフットワークを軽めに行動していると、喜んでもらえることも少なくない。たとえば「○○さんと会ってみなよ」とか「今度〇〇においでよ」という“おすすめ”に「じゃあそうします!」と即決していると、勧めてくれた方は良い顔をしてくれる。必ずしも彼らのために決断しているわけではないが、僕の選択に影響していることは確かだろう。“おすすめ”に応えることは、僕なりの誠意であり、僕なりのコミュニケーションなのである。

書かない方が、大変だ。【11月11日(木)】

きのう、つい最近670日連続を迎えたnoteの毎日更新について「すごいですね」と言われた。まあ今まで割とよくあったことであり、そもそも全然すごくない。僕なんかよりずっと高品質で、ずっとずっと更新を継続されている方は数多くいる。何も、全然すごくない。

ただ、きのうはちょっと変わった声をいただいた。「大変じゃないんですか?」と言われたのだ。そして僕は咄嗟に「それが大変じゃないのよ」と返していた。反射的に出た言葉であったが、いやだからこそ、僕にとって揺るぎのない感覚だったのである。

あらためて、毎日書くことは全く大変じゃない。「書く」が好きな者として、あるいは生業にしている者として、ずっと言葉と戯れていたい気分だ。また、noteを毎日書く習慣は、日常を変える。四六時中“ネタ”がないかと考え、自分のちょっとした感情の変化などにも敏感になる。他人の言動も、急に気になりだす。なんであんなことを言ったんだろう、どういう過去があるんだろう。そう考えると、僕はむしろ毎日書かない方が大変なのだ。

「それが大変じゃないのよ」。歳下の優しい方が相手だったこともありちょっとオネエっぽい字面になってしまったが(笑)、咄嗟に言ったことが本心というか、意外と良いことを言っていたりする。この自分の“咄嗟”に気づけたのも、何を隠そうnoteのおかげ。こうして僕はまた、このプラットフォームへの愛情を深めるのである。

▼noteではエッセイを毎日更新中▼
note.com

【Sponsored Links】