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地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#55】フィードバックは否定じゃない。

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どうも、ぼーの改め大村(@nobo0630)です。

今週もあっという間に1週間…って毎週言ってますね。もう2021年も約40日になったようですよ。

終わりよければすべてよし、なんて言葉もありますが、一応スパートかけたいとは思っています。

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自然由来のコミュニケーション、【11月12日(金)】

ここ1年「まちづくり」に強い興味を抱いた僕は、地元の宮城県美里町に新たな魅力を作る活動ができないかと画策している。ここまでそのヒントとなっているのが、コミュニティだ。既存の特産品などでアピールするのではなく、活動的で面白い人の集まりを作り出せないかと考えている。

最近は東京と宮城を行き来して、積極的にさまざまな人と出会っている。勉強させてもらう気持ちでオンラインを拠点としたコミュニティにも参加し、ホストとゲストのリアルを見つめているような感覚だ。幸いなことに、これまで出会ってきたほとんどのコミュニティは、僕にとってポジティブな学びが多いものだった。

ただ、いわば反面教師のようなネガティブな学びもある。たとえば、とあるコミュニティではチャットアプリでのコミュニケーションに関して「誰かの言葉にはスタンプでもいいので反応しましょうね」といった呼びかけがホストからされた。僕は、別にそのルール的な側面を否定しようとは思わないが、ちょっとした違和感が残る。

そもそも人と人のコミュニケーションは、第三者からの働きかけや呼びかけによって活発になるものだろうか。いや、ちがう、活発になる部分もたしかにある。婚活イベントでの「連絡先交換タイム」が典型的な例として浮かんできた。しかし、それは共同体としてのコミュニケーションとして理想的なのだろうか。僕は、決してそうではないと思う。もっと“自然由来”で、メンバーが互いに引き寄せられるような場づくりこそ、ホストがめざすべきものだと思った。あくまでも、個人的な見解である。

つまり、「誰かのメッセージにはちゃんと反応しましょうね」なんて言葉は不要だ。むしろ御法度なのではないかとも思う。あえて極端に言えば、それはホストの怠慢だ。共同体のコミュニケーションは“生む”ものではなく、“生まれる”もの。今後の自分のコミュニティ活動において、強く意識しておきたいと思う。

フィードバックは否定じゃない。【11月13日(土)】

複数人がプロジェクトに取り組んでいれば、絶対的に議論は不可欠だ。そりゃあ意見の食い違いは生まれる。いや、言いかたを変えよう、誰かと誰かの思考回路がぴったり同じになることなんて、あり得ない。むしろだからこそ、僕たちは成し遂げるために力を合わせる。

その“議論”のひとつとして、フィードバックがある(と思っている)。アウトプットされたアイデアや制作物に対して「もっとこうした方がいいんじゃない?」と、あくまで前向きな指摘をするものだ。僕はこれまで、ライターとして何度も受けてきたし、逆に誰かの文章に対して行うこともあった。それは編集と言い換えられもするだろう。

文章に“朱”を入れることは、繰り返しになるが前向きなものである。より良いコンテンツを作り上げるための、建設的なもの。しかし、むかしの僕はその朱に恐れを感じていた。文章における自分の割合が100パーセントでなくなっていくことに、ビビっていたのだ。それはなんだか「もっとこう書けよ」や「なんでこんなふうに書けないんだよ」などと、自分が否定されているようにも思えた。またしても繰り返すが、決してそんなことはないというのに。

今では、フィードバックを肯定できている。むしろ、それを頂けることに感謝できるようになった。きっかけは、とある知り合いのデザイナー。プロジェクトのチームに対して「早く見てもらいたいから〇日までに仕上げるね」とさらっと言いのけたのだった。仕事は自分ひとりで作っているものではないのだと改めて気づかされ、手間と時間を割いて頂けることをありがたく思えている。

むかしの僕のように、否定されているような気持ちになることも分かる。ただ、それはあくまでチームのため。プロジェクトのため。いかに建設的な行為だと伝えるか、今はとある人に対して悩んでいるところであったりする。

自然由来のコミュニケーション。②【11月14日(日)】

おとといの記事『自然由来のコミュニケーション』に「どんなものが自然由来のコミュニケーション?」というコメントをいただいた。たしかに文章を読み返してみたら、いわば“不自然”なコミュニケーションにしか触れていなかった。あらためて、その自然なコミュニケーションとは何かを考えてみたい。

と思ったのだが、やはり「不自然でないもの」と定義してしまう。ほかの誰かに“直接”促されたものではない、ということ。つまりは「不自然なコミュニケーションって嫌だね〜」「コミュニティのホストの怠慢だよね〜」を伝えるべく、あえて対岸にある自然なコミュニケーションが好きというタイトルおよびテーマにしたのだった。なんだか申し訳ない。

でももうすこし考えてみると、僕は普段から何も「反応すること」がコミュニケーションではないよなあとも思っている。既読をつけるだけであったり、あるいは「沈黙」もある意味表現のひとつなのではないだろうか。そうだそうだ、だからそのコミュニケーションの自由が、不自然なものでは失われてしまっているようにも感じたから、きっと僕は嫌なのだろう。何かを「しろ」ということは、何かを「するな」ということでもあるのだから。

だから結局、自然由来のコミュニケーションとは、当事者の中から湧き上がってくる、とても自由なもの。仕事感や義務感とは異なるもの。ポジティブな気持ちを以て、自発的に行われるもの。そういったものではないだろうか。

コメントをくれたnomi3さん、どうもありがとうございました。思考が進むすてきな質問でした。また、もっと自分の文章を省みようと思わせてもらえるものでした。今後も相変わらず「書く」や「伝える」を楽しんでいこうと思っています。

最後の砦。【11月15日(月)】

時刻は23:50。いつものように今日もnoteを更新したいのだが、ネタがまったく浮かばない。〆切まで、あと9分。昨日の記事へのありがたいコメントにも目を通してはいたのだが、その“続編”を書くのは今日ではない気もしていた。でもでもやっぱり、結局ネタが浮かばない。

まあこんなことは、よくあること。15分前になっても浮かばない、なんてことはざらにある。最終的にはこの「ネタのない状況」すらネタにできるんだという、“最後の砦”がいつも僕を安心させてくれていた。

そして今日、その最後の砦にお世話になっている。ついに伝家の宝刀を抜いてしまった。いつも、そう簡単に抜くまいとは思ってはいるものの、ついにやってしまったよ。前回はいつだっただろうか。まあ、結構あいだが空いているから許してやってほしい。これで一応、連続更新は途絶えずに済んだようだ。

次にお世話になるのは、一体いつになるのだろうか。この「ネタがない」というネタ。もう二度とお目にかからないのが理想ではあるが、現実はそう甘くないだろう。だから最初から、覚悟しておくんだ。心の準備をしておくんだ。またこの最後の砦に帰ってくるまで、いや極力帰ってこないように、今後もnoteと向き合っていようと思う。

試合前。【11月16日(火)】

このあと午前1時からサッカー日本代表の試合がある。カタールW杯アジア最終予選のオマーン戦。9月2日にホームで敗れた相手との、いわばリベンジマッチだ。今大会のアウェイ戦は地上波での放送はなく、僕はいつもお世話になっているDAZNで観戦する。

このまま来年のW杯でベスト8以上という目標を達成できるのか、いやそれ以前に、しっかり本大会への出場権を獲得できるのか。森保一監督の力量に対する懐疑的な視点は、もうサッカーファンの間ではおなじみとなってしまった。それでも今日も僕たちは、サッカーが好きだから観戦する。日本の選手たちが輝く姿を、心の真ん中で願っている。

奇しくも、先ほどまであまりに眠すぎて昼寝というか夕寝をしてしまった。たしか20時から23時ぐらいまで。ハッと目覚めて「やばいnote書いてない!」と時計を確認するのはよくあること。日付が変わっていなくて良かった。僕のコンディションは万全である。炭酸のジュースといっしょに、しっかり今のサッカーを見届けようと思う。

誰かの人生を奪うつもりで。【11月17日(水)】

SNSを見ることに没頭しているとき「他人の人生を生きてしまっているなあ」と思います。誰かが作ったものを、楽しむだけ。眺めるだけ。とくにTikTokをはじめとした短尺の動画は、ぽんぽん切り替えられてしまいあっという間に時間が過ぎ去ります。

ひと通りSNSを楽しんだ後、ちょっとした空虚感が僕を包みます。相変わらず静かな部屋でひとり「やばい、こっちはなんにも変わっていない」「ああ、また他人の人生を生きてしまった」と。それでもまた気がつけば、TikTokやInstagramを開いてしまいます。これはさすがにマズイと、さっき“ROM専”となっているTikTokはアンインストールしておきました。

もっと自分の人生を生きなければなりません。いや、何を当たり前のことを言っているんでしょうか。でも、今はそれが簡単なものではないと感じてしまっています。まあ「難しい」と思い込むことで、これまでの自分を肯定したいだけなんでしょうけれども。そうこうしているうちに、もうすぐ2021年も終わっちゃいます。

これからは逆に、誰かの人生を奪うつもりで生きてみようと思います。自分の発信で、誰かの人生に現れてやるのです。結局僕は、自分を表現することが好きなようです。SNSがある時代に生まれて良かったです、ほんとうに。誰かのためとか地元のためとか、最近はいろいろな想いが溢れてきていますが、根底はそう簡単に変わりませんね。もう少し自分を信じていたいと思います。


明日から、また宮城。【11月18日(木)】

明日の朝から、また宮城県へ行ってきます。今回の行き先は、沿岸部に位置する東松島市。約1年前のオンライン移住イベントで仲良くなった“移住コーディネーター”に声をかけられ、移住体験ツアーのレポート記事を書くお仕事として行ってきます。まあ、僕個人も東松島をがっつり楽しんでしまうと思うのですが。

移住コーディネーターの方とは、出会ってからなんやかんやで2〜3ヶ月に一回ほどのペースで会っています。僕が東松島へ行ったり、彼女らが東京に来たり。もともと僕は「宮城へのUターンを検討している者」として仲良くさせてもらっていましたが、ちょくちょく仕事もさせていただく関係性にもなっています。本当にありがたい限りです。

最近、このような「先に仲良くなって後からいっしょに仕事するパターン」が宮城のあちこちで増えてきていて、僕は“こっち側”の人間だったんだなあと実感しています。つまり、最初から仕事の関係性として出会うことに苦手意識があるのです。まあそれが一般的であり、それを上手にこなしてこそオトナなのかもしれませんが。

自分が好きな働き方に出会えたことは、素直に喜びたいと思います。そして何より、これを実現してくれているのは、僕の周りの方たちです。僕をどうにかこうにか巻き込んでくれて、とても良い思いをさせてもらっています。繰り返しになりますが、本当にありがたい限りです。明日からまた、しっかり宮城を感じて考えて、宮城のために文字を紡いでいこうと思っています。


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