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地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#69】書けるって、解るなんだ。

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どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

今週もあっという間に週末となってしまいました。

地域へ移住することが決まり、着々と準備を進めております。

ただその中でも、エッセイを書くことは欠かしません。

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侵犯のできなさ具合。【2月25日(金)】

あちらの言い分。こちらの言い分。ぼくは基本的に、どちらの言い分もあっていいと思っている。いや、もうすこし丁寧に言うなれば、こちらに言い分があるぶんあちらにも言い分があるわけで、それぞれの領域を侵すことはできないと考えているのだ。だから自分の意見を断定することや、誰かの意見の否定することなどには、とても抵抗がある。

ただ、いつまでもそう言ってはいられないということも解ってきた。ひとりでできることには限界があって、たとえば誰かと何かをするとき、その“侵犯”が必要な場合もある。むしろぶつかり合って良くしていく、みたいな風潮もある。これから地域で何かを成し遂げようとしている自分にとって、侵犯は課題のひとつなのかもしれない。より多くの人を巻き込み、より良い地域にするためには、それこそ時にぶつかり合うことも必要だろう。

でもなあ。そんな自分の生き方を変えるのは簡単じゃないよなあ。ありがたいことに、優しさや長所だと捉えられることもあるんだよ、ぼくの「侵犯のできなさ具合」は。やっぱり誰かに侵されることは、正直良い気分がしなくなっちゃうんだ。これはぼくがわるいんだけどね。もっと免疫をつけられるようにがんばりたい。もう少しだけ、自分は変われると信じていたい。

地域おこし協力隊として、Uターンします。【2月26日(土)】

つい先日、地元の宮城県美里町より封筒が届いた。その中身は、地域おこし協力隊の選考結果として採用を記す書。じつは町長や副町長とお話しした先週の面接の時点で“ほぼ内定”を頂いてはいたが、ようやく正式な通知を受け取ることができた。

ということで、僕は今年4月の新年度より協力隊としてUターンする。2020年の秋から宮城の各地へ足を運びさまざまな人や環境に出会ってきたが、僕は地元へ戻ることになった。「なんだ結局かよ」と自分ですら思うが、そう、結局である。

思うに、僕が欲しかったのは“オフィシャルのバッジ”である。つまり、地域や人々から存在を公認されること。これまではたとえば、ありがたいことにフリーのライターとして関わらせていただくこともあったが、やっぱり各市町の担当者の方と肩を並べると“異物感”が否めなかった。いや実際に異物だし、それでも宮城の皆さんは温かく迎え入れてくださったのだけれど、そのバッジを得る意味も含めて、ちょうど来年度より1期生として始まる美里町の協力隊こそ自分が担うべき役割ではないかとも感じたのである。

だから今後は、自治体公認のれっきとした、オフィシャルなものとして活動していくのだ。当然、ど地元で生きることや、初の協力隊としての振る舞いなど、不安は大いにある。しかし、そこはきっとこれまで出会ってきた宮城のまちづくりの先輩方が救ってくれるだろう。おこがましくも、すでに頼る気満々である。この場を借りてよろしくお願いします、である。

そして今後は、まちの外から誰かを美里町へ招き案内できるよう努めたい。わずかながらも、僕と知り合うことで美里町を認知した方もいたはずだ。そういった方々を積極的に招きたいし、あとはかつての僕みたいな“オフィシャルじゃない”人を巻き込む仕組みづくりなどにも取り組みたい。今はつたない妄想ばかりが広がってしまうが、まず環境に馴染むことを考え、ひとつひとつ活動を積み重ねていきたいと思っている。

語彙力ってなんだろう。【2月27日(日)】

「文章書く仕事してるって言ってたっけ?やっぱり読書とかよくするの?わたし語彙力ないな〜と思う機会が多くて、最近本買ったんだよね」

つい先日、とある女友達に言われた台詞である。「まあ…読まなくはないって感じかな」と、僕は歯切れのわるい返答をした。というのも、発言しながら「語彙力」という言葉の定義を探っていたからである。ちなみに彼女は『語彙力が上がる本』なる本を読んでいたらしい。

語彙力。例えば「おいしい(語彙力)」などと、いつからかネット上のスラング的に使われるようになり、今や多くの人にとって馴染みのある言葉となっただろう。おもに「語彙力がない」と敢えて“ない”場合に使われる印象があり、それは能の低さを示す自虐的な、ときに攻撃的な意味となりうる。すなわち「語彙力がある」とされる場合は、いわゆる博識というか、それなりに高尚なイメージがあるのではないかとも思う。

ただ、僕はそんな「物知り」が本質ではない、なんてことを考えている。つまり重要なのは言葉を記すなり発するなりで状況やタイミング、心情に適した、あるいはウィットに富んだ「表現」ができること。それこそが「語彙力がある」ということだと思うのだ。極端な話、どれだけ言葉を知っていても表現がなければ語彙力はなく、あまり言葉は知らなくとも適切な表現ができればよい。野球に喩えるなら、きれいなスイングを追い求め続けるよりも、とにかく試合のバッターボックスでヒットを打てればよいのではないか。だから僕は、まず静かに本を読んで語彙力を蓄えようとする女友達に、ちょっとした違和感を覚えたのだろう。

とまあ、ここまで書いてきたけれど、結局ヒットを打つためにはきれいなスイングが必要なわけで。博識であることに間違いはないんだろうね。思考がぐるぐる回って、もう何を書いているかよくわかんなくなってきた。自分の語彙力のなさに肩を落としながら、その語彙力を養うためにも僕は、こうしてnoteを書いているということである。

愛があるから。【2月28日(月)】

自分が良かれと思っていることでも、他の誰かにとってはわるく映っていることがある。逆に誰かの良かれが、自分にとってあまり良かれではなかったりもする。このへんの「良かれ」を許しあい、ときに指摘しあうのが、コミュニケーションの難しさであり面白さであると僕は思っている。

そんなある種のギャップや争いは、それぞれに「想い」があるから生じる。それはきっと「愛」とも言い換えられ、つまり愛がない場所には、良くもわるくも何にも起きやしない。たとえば「喧嘩するほど仲が良い」と言われる所以は、このようなところにあると思っている。

2022年の今、ヨーロッパで争いが起こっている。正直僕は、両国の状況を詳しくは知らない。怖いなあ、大丈夫かなあと、そんなことを考える程度だ。ただそんな中、両国の人々に愛があることは感じられている。愛があるから、争いが起きる。いわば愛が凶器になっているとも言えそうだ。

じゃあこの世界から、愛が全く無くなってしまえばいいのかといったら、そういうわけでもないだろう。愛があるから、ここまで世界は広がった。少なくとも、僕の周りはみるみる豊かになっている。つまり人は、愛があるから何かを生み出し、愛があるから何かを壊すのだろう。ひとりの人として我ながら、じつに不思議な生きものだなあと感じられている。

Aが欲しけりゃ、Aとは言わない。【3月1日(火)】

5年ほど前に受講した『コピーライター養成講座』で教わった、未だ鮮烈に憶えていることがある。それは言葉のコミュニケーションにおいて「Aという結果が欲しかったら、Aとは言わない」というようなものである。

たとえば、とある商品を「買ってほしい」と思っていたとして「買ってください!」と、いわば直接伝えることは最善でないということだ。そんな単純なコミュニケーションで世の中が動いたら、多くの人は苦労を知らずに生きられることだろう。つまり、情報の送り手が「買ってほしい」と思ったとしたら、受け手自身が「買おう」と思えるような発想およびコミュニケーションが必要とされるのである。だから、買ったことで得られる新たな価値を示してみたり、ちょっとした駄洒落で気を引いてみたり、さまざまな試行を凝らすのだ。

そういった意味で、最近の僕は反省しきりである。

来月から宮城県美里町へUターンすることが決まり、「おめでとう」と言葉をかけてもらえる機会が多くあった。それに対して僕は、お礼と共に「今度ぜひ美里へ遊びに来てくださいね」みたいな言葉を、何の悪びれもなく返していたのだ。いやいやいやと、リトル大村がうんざりしている。僕はこれから出迎える側の人間として、誰かに「美里へ行ってみたい!」と思わせるコミュニケーションをしなければならないのに、堂々と怠慢を披露する自分に嫌気が差してしまった。とはいえ、“地域側”の立場へ一丁前に立ってみると、案外するする直接的な表現が出てきてしまうものだとも気がついた。これから気をつけよう。

「ぜひうちの地域へお越しください」だとか「チャンネル登録お願いします」だとか。そういった成果が欲しければ、その地域へ行きたくなるような、チャンネル登録をしたくなるような言葉や仕組みが必要である。まあそんなこんなで、あえて今日だけは言わせてほしい。

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何を伝えるか、何を伝えないか。【3月2日(水)】

先日取材させてもらった、宮城県内で起業支援に取り組んでいらっしゃる方の初稿記事ができた。熱い思いが溢れて聞き応えたっぷり、盛り上がりを見せたオンラインでのインタビューは約1時間半にまで及んだが、どうにかこうにか3000字台に集約。今は編集の方のチェックを待っている段階である。

とは言ってみたものの、すでに僕自身も編集に取り組んだつもりである。事前に構成を提案し、あるいは約17000字に達した取材音声の文字起こしからある程度の見切りもつけながら作業を進めたからだ。それなりに悪戦苦闘しながらも、ひとまず記事を仕上げられてほっとしている。

常々感じていることではあるが、「何を伝えるか」を考えることは「何を伝えないか」を考えることでもある。たしかに取材の“現場”は盛り上がっていたが、すこしテーマやメディアには沿っていないこと。複雑な前提事項が多くて、読者には情報が届け切れないこと。そういった判断から泣く泣く“カット”せざるを得ない事象は、決して少なくない。

また、コンテンツの受け手にとっても、基本的に情報は少ない方が伝わりやすいだろう。取材の内容全てを記事にしてしまうことは、情報が洗練されていない不親切なコンテンツだと言える。もし僕自身が受け手ならば、その文字数に圧倒され、記事を開いた時点で読むことを諦めてしまうだろう。

そのコンテンツは、何を伝えるべきのか。またそのために、何を伝えるべきではないのか。僕もおもに言葉に携わるクリエイターの端くれとして、これからも心の中の取り出しやすいところに仕舞っておきたい考えである。

書けるって、解るなんだ。【3月3日(木)】

僕が憧れるライターの方が、「ライターは自分で理解できなかったものを書いてはいけない」と、自身の書籍で仰っていた。たとえ取材やリサーチなどといったステップを踏み、文字や音声としての情報が手元にあったとしても、自分で解釈できていないものは決して文章に入れてはいけないという。

恐れ多くも、僕はこの感覚に共感および納得できる。書き手として、取材対象者が話していたことが自分の頭の中でもしっかり組み立てられると、迷わずすんなりと文章を書くことができる。逆にあまり理解できなかった時は、まるでパソコンのコピー&ペースト。文章として不自然な仕上がりとなり、全体のクオリティを落としてしまう。その部分だけ、やけに“浮いて”見えるのだ。

つまり、分かりやすい文章を書く人の頭の中は、とても整理されている。何を伝えるべきかを理解して、伝える順番なんかも緻密に計算されている。ライターの方が、一度“噛み砕いて”再び組み立てたものだから、読み手としてもすんなり理解できる。すなわち、クオリティが高い文章と認識されるのだ。

僕が憧れるライターの方を思い浮かべても、きっとそう。博識で聡明で、いわゆる「頭が良い」ってやつだ。僕はきっと、その文字のチョイスやセンスだけでなく、垣間見える頭の良さにも惹かれているのだろう。書けることは、解ること。そう考えると、毎日こうしてネット上に“知能レベル”を晒している自分について、度胸だけはいいやつだなあと思える。度胸だけはね。我ながら。

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