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地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#70】地域で活かす編集力。

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どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

週刊エッセイも、今回で70回目となりました。

もはや「週刊エッセイブログ」と言っても過言ではない状況となってしまっていますが、この企画以外の投稿も頑張っていきたいと思います。

あ、APEXハマっててやばいです。僕はレイスばっか使ってます。

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地域で活かす編集力。【3月4日(金)】

このnoteで繰り返し伝えていることではあるが、僕は来年度から、宮城県美里町の地域おこし協力隊を務めることになった。来年度とはつまり、来月である。今は東京のアパートからの引越しを手配するため、大急ぎで複数の業者に問い合わせているところだ。

美里町の職員の知り合いから「議会で協力隊の話をしてたから見てみな」と言われた。聞けば、その会議の様子はYouTubeで公開されているとのこと。検索してみると、確かにあった。タイミングによっては、ライブ配信もされているようだった。

youtu.be

ということで試しに見てみたが、なんと言うべきだろうか。町にとって重要なおじさまたちが集う、重要なイベントであることは理解しているつもりだが、はっきり言ってつまらない。いやつまるとかつまらないとか、そもそもそういう話でもないのかもしれないが、今の自分にとっては見続けるのが苦痛に感じられた。

ただ、じゃあこの苦痛を感じてしまう僕のような人に、議会の内容を分かりやすく「編集」してみたらどうだろうというアイデアも浮かんだ。それが文章なのか動画なのか、漫画なのかは分からないけれど、ポイントを抑えながら議題の経緯も添えながら、議会の情報を要約できたら。町の若者をターゲットとした、ちょっと面白みのありそうなコンテンツにならないだろうか。そしてこの制作を通じて、僕自身の町に対する理解も深まるような気がしている。

とまあ、どれだけ実現できるか分からないけれど、地域に入り込む前の段階のアイデアも大事にしたいと思う。スマホのメモアプリに、思いつくたびに忍ばせている。程よく意気込んで、地域での新生活に臨んでいきたい。

つくるディスカッション。【3月5日(土)】

きのうの夜、昨年末から本格的に活動を始めた「ギルド」の仲間と、オンラインMTGを行なった。ギルドとは、プロジェクトごとに任意の個人がチームを結成するような、比較的新しめの働き方である。詳しくは、我らがプロデューサーのnoteを読んでいただきたい。

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きのうの議題は、とある地域のための、とあるポスター制作。写真と文字、そしてデザインについて、デザイナーが共有する画面を見ながら、メンバー同士ああでもないこうでもないと話し合っていた。で、密かに思ったのだ。「創るためのディスカッションって、面白いなあ」と。思ったというか、改めて確かめたという表現が正しいかもしれない。

自分たちの“世界”の中にだけ存在しているものを、まだ見ぬ世間一般の“世の中”に放つこと。それはなんだか、世の中の先を走っているような気分になる。きのうのメンバーだけに限らず、最近は宮城県の人々や、昨秋から所属した『応援しあう東北』というコミュニティ内の仲間ともディスカッションしている。もちろん、本業でも。思えば僕は、そのたびにちょっとしたワクワクを胸に携えている。

とはいえ、創ることは楽しいことばかりでもない。世の中にないものを生み出すことは、決して簡単なことではないだろう。いや、このnoteのように何も考えず、ただただ自分のために生み出すことは楽しくて簡単ではあるが、“ウケるもの”を創ることは難しい。想像と結果が伴わないことは、しばしばである。

ただ、そんな難しさもあるからこそ、「つくるディスカッション」は楽しいのではないかとも思う。Mr.Childrenの名曲『終わりなき旅』にも、「高ければ高い壁の方が 登った時 気持ちいいもんな」とある。そう、こういうことである。そしてその壁を、気の知れた仲間とひとつになって超えていくことに、僕が感じるワクワクが詰まっているのだとも思っている。

ふつうに考える、とは。【3月6日(日)】

「ふつうに考えて〇〇でしょ」と言われることがよくある。たとえばそう言い放つ人は、僕の言動に対して、自分自身とちがう発想やアクションに驚いているようだ。そして「いやいやいや」と僕の立場を否定するように、自分が“(社会・多数的な)正解”であることを誇示してくる。

それに対して僕は、だいたい「ああ、そうか」「まあそういう考えかたもあるよね」と、変に角度をつけずにリターンする。別にあらためて自分の立場を誇示し返すこともなければ、相手の意見を称賛することもない。正直、言いたいことも浮かんではいるが、それを言ったとて“いたちごっこ”というか、ナンセンスな気がしていつも口を閉ざしている。だからその口を、今日はここで開いてみようと思う。まあ、書くんだけれども。

まず、経験や価値観などのちがいから、人によって「ふつう」が異なることは自明である。だから「ふつうに考えて〇〇でしょ」と、半ば相手へ押し付けるように言葉を放つのは、それこそ僕の「ふつう」では考えづらい。その人だけが持ち得る独自の「ふつう」に、僕は決して立ち入れないと感じてしまう。だから何なら、「ふつうに考えて〇〇でしょ」と言われる僕も驚いているのだ。なぜそんなにも、あえて言葉を尖らせればデリカシーのないことを言えるのだろうと。

ただ、「ふつうに考えて〇〇でしょ」と言えるのもまた、その人にとっての「ふつう」なのである。そうして僕は、「自分も誰かのふつうを侵してしまう」と思い、結局何も言えなくなるのだ。自分の想いをぶつけて、誰かの「ふつう」を曲げるほどの勇気や責任もない。ただただ僕は「そういう考えかたもあるよね」と、口と共に心も閉ざし気味で接していくしかないのである。

「かわいそう」の雰囲気。【3月7日(月)】

「友だちが少なくてかわいそう」だとか「1人でお弁当食べててかわいそう」だとか。学生時代、僕はあちこちに蔓延る「かわいそう」を気にして、それから逃れるように生きていた。ハッキリと言葉にはされていなかったものの、確かに感じられた雰囲気であった。僕もしっかり踊らされていた。

ただ、時が経って今、思うのだ。その「かわいそう」の雰囲気がなければ、友だちが比較的少なかろうが1人でお弁当を食べようが、それぞれの選択肢は確立されたのではないかと。もちろん誰かを“守る”ための雰囲気であったことは分かっていながらも、結果的に誰かの選択肢を“壊して”いたのではないかと。何の根拠もない想像にしか過ぎないが、「かわいそう」と言う側が攻撃していることってあるんだと思う。たぶん。事例として。あ、結局これも雰囲気なんだけれども。

これから僕は、おそらく地域の学生なんかとも関わりを持っていくのだと思う。というか、持っていきたい。つまり「かわいそう」と言う側の成分が多くなると思っている。ただ、あまりその雰囲気によって、何らかの選択肢を壊してしまわぬように気をつけたい。たとえば学生たち自身で答えを見つけられるような、そんな仕組みをつくっていきたいと思っている。

小説の面白さ。寂しさ。【3月8日(火)】

小説には、“自力”でストーリーを進めていく面白さがある。たとえばドラマや映画などの映像作品は、画面の前に座ってしまえばもう、いわば自動で話が進んでいく。ただ、小説は書籍にしろオンラインにしろ、自分の目と心で“進めて”いくエンターテイメントである。

だから、自分のペースで楽しめる利点がある。1ページ読もうが10ページ読もうが、本を閉じたらストーリーは中断。もちろん一日ですべてを読み切ってもいいし、解らない箇所が出てきたらページを遡ったっていい。目を見張る表現があれば、線を引いたりメモしたりする、そんな楽しみ方もできるだろう。

ただ、その分ストーリーに終止符を打つのも、自分自身となる。読み進めていくうちに、終わってしまうのが名残惜しく感じられることがあっても、そんな寂しさを抱えながら自力を振り絞らなくてはならない。映像なら時間が経てばエンドロールが勝手に訪れるが、小説だとそうはいかない。つまり小説は、面白さと共に、寂しさも増していくエンタメなのだ。

とまあ偉そうに、当たり前のことを書いてみたが、これは僕の知人が言っていたこと。言われてみればたしかにそうだなあと、面白がってここに記してみたという話である。

憤りのシグナル。【3月9日(水)】

「なんでそんなことを言うの」とか「なんでそんなことをするの」とか。僕は誰かの言動に対して、神経を疑った経験がある。きっとその分、自分も幾度となくそう思われてきたのだろうと覚悟はしているが、つい最近も“思う側”として過ごした。引越しに関する父親とのやり取りで、僕は彼のLINEに憤ってしまった。

ただ、この先僕は彼の近くで生活していくから、有耶無耶なコミュニケーションは決してプラスにはならないとなかなかの長文LINEを送りつけた。僕は今こう思っています、これまでのあなたのあのような言動に対しても同じように憤ったことがありました、と。すると彼は「お前がそんなことを感じているなんて分からなかった」と返してきた。はっとした。そうだ、そりゃ分からないよな。いやこれは、別に皮肉で言っているわけじゃない。分からないから、こちらが憤るような言動をしてしまうのだ。

だからこちらとしては、しっかりその「憤りのシグナル」を示す責任があると感じた。勝手に呆れて落ち込んで、勝手に不機嫌になるのは無責任ではないかと。「あなたのあの言動が、私に対してこのような影響を与えました」と、しっかり相手に知らせることが、いや少なくとも僕にとっては父親に伝えることが、こちらとしての真っ当なコミュニケーションではないかと感じた。つまりそう、これまでうちの家族は、勝手に口を閉ざして勝手に不機嫌になることを繰り返していたのである。

比較的、うちの父親は家族に対して無神経だと思う。僕が見る限りでも、祖母や母親に対して、しばしば「おいおい」と思えるコミュニケーションを見せてしまう。ただ、彼にとって僕はいわば神経質である。何をそこまで気にして感じて考えているのだと、そう思われていることだろう。来月から地元で地域おこし協力隊を務めるにあたって、そういったコミュニケーションというか、責任をもって人と接していきたい。まあ家族に限らないことではあるんだけれども、まずは家族からという心意気でもいいのかなと思っている。

“看板”を背負う度胸。【3月10日(木)】

知り合いがコーチングを始めたらしい。以前からTwitterで「コーチングを始めました!」と発信していたのは知っていたが、彼のコーチングを受けた人のツイートがタイムラインに漂ってきた。無論、彼が「いいね」やリツイートしたから、である。

コーチングという言葉を辞書で引いてみると、「目標を達成するために必要となる能力や行動をコミュニケーションによって引き出すビジネスマン向けの能力開発法」とあった。僕はしたこともされたこともないし正直よく分からないけれど、会話を通じて発見や理解を与えることがソレなのではないかとぼんやり認識している。たしかに誰かとのコミュニケーションを通して、自分の思考が変化することってある気がする。僕も密かに、話している誰かに気づきを与えるような、そしてこちらも気づきを与えてもらうような会話は好きである。

とはいえ、そのコーチングをするという“看板”を背負って活動できることに対しては、羨望というか尊敬の念がある。僕も普段の会話レベルなら難なく取り組めるが、「あなたの未来を導きますよ」とコミュニケーションするには度胸が足りない。いや、度胸だけでなく、技量もきっと及ばないだろう。そんなことを考えてしまうから、僕は結局コミュニケーションは好きでも、コーチングはできないと思うのだ。

だから知り合いには、そんな僕の分も頑張ってほしい。いや勝手すぎる話ではあるが、そんな期待を抱きながら、僕はタイムラインを眺めるのである。

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