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地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#68】徐々に見えてきた、良いコミュニティの条件。

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どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

週末恒例『週刊エッセイ』のお時間です。

今週はひとつブログを更新できましたが、もう少し書けたらなあと考えています。

ちなみに、noteの連続更新は780日を超えました。気づけば2年以上も継続しているようです🙄

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言葉で何を叶えたいか。【2月18日(金)】

中学生の頃、教えかたの相性がよかった先生のおかげで国語の授業が好きになり、あるいはMr.Childrenに出会って“歌詞”という概念を知り、僕は言葉が好きになった。たとえば「国語も好き」と「国語は好き」というように、たった一文字で意味合いが変わってくる奥深さ。またいわゆる比喩、お笑いでいうところの「例えツッコミ」にあるような自由さ。そして、だからこそ問われる表現の繊細さ。そこに顕在する個性。僕はおそらく学生当時から、これらの魅力の虜となっていると思う。

今はありがたいことに、そんな言葉でご飯を食べさせてもらっている。一度は大学時代の就職活動に失敗して諦めかけた夢だが、上京を通じてなんとかかたちにできた。これは確かな成功体験のひとつである。

そして今後は、そんな言葉を使って何を叶えたいかというフェーズに入ってきた。僕が弾き出した答えは「まちづくり」。もっともっと「書く」や「伝える」スキルを極めるのもいいのかもしれないが、僕は自分の作用のされかたというか、世の中との関わりかたをもっと面白くしたいと考えた。つまり僕が活動すべきフィールドは、地方にあるのではないかと。

今回の挑戦がどう転ぶかは分からない。ただ、自分の努力次第でいくらでも、成功と呼べる結果を引っ張ってこれるだろう。言葉を使って、いやそれ以上に自分という人間を使って、実現したいこととしっかり向き合っていきたいと思っている。

残りわずかな東京生活。【2月19日(土)】

約5年の東京での生活を経て、いよいよ次の春、僕はまた新たな生活を始めるのかもしれない。まだ正式な決定は受け取っていないものの、その可能性が濃厚となってきた。そう、地方への移住が差し迫っているのである。

こないだも髪を切る時に感じたことだけど、やはり「終わり」が見えると虚しく感じたりもする。ああ、もうすぐ今の“当たり前”もなくなってしまうんだなって。じゃあやっぱり終わらずに続けようか、という話でもないんだけれど。地方への移住は自分が望んで選択したことだし、変化しなければ衰退していく一方だと思うし。

残りの東京生活で、何をしようかなと考えている。まあそんな呑気なことを言っていられないほどカツカツのスケジュール感だけど、せっかくの日本の首都で何かやれることがありそうだ。とはいえ、僕にはスカイツリーに登るとか国技館で相撲を見るとか、そんなものしか見つからなかった。やっぱりさっさと地方へ行こう。

未来で自分の20代を振り返った時、「あの時オレは東京に住んでてね〜」とか、周りの若い人たちに話すんだろうなあ。今から鼻につかないよう気をつけたとしても、きっと話してしまうんだろう。「ああ北千住?懐かしいね〜よく飲みにいってたわ」みたいなことも言ってしまうのだろう。ただ、それもこの東京生活があっての話だ。少しだけ、そんな自分も許容しておきたいと今は思っている。

「まあ」という口癖。【2月20日(日)】

あなたには、口癖があるだろうか。ついつい無意識に発してしまうような言葉。いやいやそれを意識するのが難しいんだよ、意識できないから“口癖”というんだよ、なんて声も聞こえてきそうだ。

そんなあなたに問いかけたのは他でもない、自分の話をしたかったからである。僕の場合は「まあ」だ。取材でのインタビューやちょっとした動画の音声で判明してしまった。「まあ僕はグレープフルーツが好きだけど」「まあ、それもアリだよね」みたいな。

「まあ」を辞書で引くと【①我慢できる程度・だいたい②気持ちをなだめる語③行動を促す気持ち】とあった。しかし、僕が多用する「まあ」とはちょっとニュアンスが違う。それはつまり【まあ僕とちがう考えの人もいるとは思うけど】の「まあ」である。多様性を助長するような、いわば“令和的”な二文字である。

そのルーツは高校時代。勉強についていけず人生初の挫折を味わっていた僕は、ふと憂鬱な日々の中で「勉強ができないと周りから思われるのが嫌なんだ」という本質に気づいた。それからいわゆるアドラー心理学的な、他者が思う自分ではなく自分が思う自分が全てだという考えにスイッチ。ぐっと生きるのが楽になり、じゃあこの絶対的な感覚を誰もが持っていたとしたら、僕は決して誰に対しても干渉できないだろうと思うようになった。やがて、誰かを否定も肯定もしないような「まあ」という口癖が身についたと思っている。



とまあ、なんでこんな話を書いているかというと、誰かの口癖がめちゃくちゃ気になってしまうから。僕が知っているサッカー解説者が「やはり」を乱用する方でね、全く意味を持たせていない三文字なんだろうけど(きっと無意識だからね)、ついついムダに追ってしまうんだよなあ。おそらく自分も「まあ」以外に、何かまた別の口癖があるんだろうけど。なるたけ気をつけて生きていたいなあ。

noteと愛と。【2月21日(月)】

noteの毎日更新を始めて、今日で780日。気づけば2年以上の歳月が経過しており、ここ最近出会う人々は、僕のこの“note習慣”を認知してくれている。またそれだけでなく定期的にチェックしてくれて「引き込まれる文章だよね」「読みやすいからついつい読んじゃうよ」なんて言葉で、僕の背中を支えてくれる人もいる。ほんとうに、ありがたい限りである。

SNSの発展と共に、「バズる」という言葉ができた。SNS上で拡散され、多くの人の目に留まること。それは時にテレビや新聞に取り上げられるほどの社会的な話題を呼ぶこともあり、「バズ」を狙って生み出すビジネスマンの存在も至って“ふつう”となった。

ただ、僕個人の発信として考えた場合には、そんな匿名の不特定多数の人々から拡散や賛否両論を受けるよりも、実名のいわば少数精鋭から反応をもらえる方がだいぶ嬉しい。「いいね」やコメント、あるいは直接の声による言葉をもらえるたびに、その知人の顔が頭に浮かぶ。きっとコンテンツとして話題になるよりも、自分という人間が読者へ届くことに価値を感じているのだろう。まあ、これが自由に言えるのは、自由にバズを起こせる人間だけなのかもしれないが。

一日の内省や文章力向上のため、また「書くことが好きだから」という理由からあくまで自分のために続けているnoteの更新。今後もこのスタンスを変えるつもりは毛頭ない。ただ、僕の文章を読んでくれる方々への意識は、きっとこれから右肩上がりに増していくだろう。愛とも言い換えられるであろうこの気持ちと共に、僕は今後も文字を紡いでいくのである。

「今」から遡り歴史を学びたい。【2月22日(火)】

学生時代、歴史を学ぶのが苦手だった。今や未来を考えるためだと、その過去を学ぶ意義はなんとか理解できたものの、僕にはどうしても“実感”が足りなかったのだ。授業ではいわば“おとぎ話”を聞かされているような感覚で、テストの点数は全然よくなかった。まあ、ただ暗記することをサボっていただけ、とも言えるのだけれど。

そんななか、僕は最近になって歴史に興味を持ち始めた。というか順番としては、まずとある地域に興味を持ち、そしてその地域の歴史を知りたくなったのだ。「今」に興味が湧いた途端に「過去」を知りたくなったのである。僕は初めて自分から、歴史に関する書籍を手に取った。ちなみに、運良く知人から貸してもらうことができた。

しかし、である。その話は「縄文時代」から始まった。たしか学校の歴史の教科書もそうだった。土器がなんだ古墳がなんだと、せっかく貸してもらった本も結局、“おとぎ話”である。少し頑張ってはみたものの、やっぱり僕は本を閉じてしまった。

たとえば、この「令和」から遡る歴史書はないのだろうか。自分も生きていた「平成」、親が生きていた「昭和」と、この「今」から遡り歴史を学びたい。その方がストーリーに強い実感が湧き、僕にとって決して“おとぎ話”ではなくなるだろう。

まあ、きっともうあるのだとは思う。この世のどこかに、今から遡る歴史書は。なんとなく検索すれば、Amazonにもありそうだ。とりあえず僕が知りたい地域の書籍に関しては、後ろのページから読み進めてみようと思う。自分自身でストーリーを描きながら、前を向きつつ後ろへ進む、ムーンウォークのように読んでみることとする。

徐々に見えてきた、良いコミュニティの条件。【2月23日(水)】

これから本格的にまちづくりへ取り組もうとしているものとして、居心地の良いコミュニティってなんだろうと考えている。

昨年の秋、何を思ったのか僕は、①U29のマイプロ②起業創業③プロボノという3つの異なるコミュニティへ一気に所属した。正直それなりに忙しく大変な時期もあったが、いずれも宮城や東北に関するものだったこともあり、今となっては経験できてよかったと思っている。さまざまな人と繋がり、またそれによって新たな立場や心情を抱える自分とも出くわせた。そして、個人的および社会的な「良いコミュニティ」のあり方を自然と考えられたのである。

その結論は今のところ「より細かな個人が許容されるか」となっている。肩書きやコミュニティに所属した経緯といった“オフィシャル”なものだけでなく、趣味や言動など、より細かな個人の特徴が許容される場になっているか。また、それらを当人たちが表現しやすい場になっているか。事務局のイベント企画や広報などは大前提として、所属する一人ひとりが自分らしく居られるような環境こそ、良いコミュニティなのだと思う。ぼくは。

思えば、友人同士でもそうだ。より自分が自然体で居られること。言動に含まれる些細なニュアンスを感じ取ってもらえること。メンバー同士で「おもしろ」を共有できること。ちなみにこれは、昨日オンラインゲームを楽しむいつもの仲間と接しているとき、密かに考えていたことである。コミュニケーションがピタっと“ハマる”ことって、じつは結構スペシャルな、ありがたい話だと思うんだよなあ。

練習と試合。【2月24日(木)】

スポーツには「練習」と「試合」という場面がある。選手たちは、公式の結果として記録される試合のため、練習で努力するのである。先のオリンピックなどが好例だろう。そして、僕が学生時代に経験したアマチュアの世界にも、一丁前にいわばこの“概念”は存在していた。

不思議なもので、練習でできていることが試合になるとできなくなる、ということはしばしばである。会場の雰囲気なのか、相手選手の存在なのか、自分自身の緊張なのか。はっきりとしたその原因は定かではないものの、思うような結果を残せない選手の姿も多く見られる。一丁前に僕自身もそうだったし、そんなチームメイトも見てきた。

ただ、その困難を乗り越えて、試合で好成績を残せる選手もいる。たとえばメダルを獲得するような、たとえばメジャーリーグでMVPを受賞するような、トップ選手である。いや決してそうでなくとも、少年野球の公式戦でヒットを打つとか、良いピッチングをするとかでもいい。僕が思うに、競技を継続しちょっとしたきっかけなどがあれば、練習でできていたことが試合でも発揮できるようになるのである。これには、個人的な経験談も含まれている。

何が言いたいのか。最近始めたバトルロワイヤルゲーム『APEX』の試合で、ようやく練習のような射撃ができるようになってきた。それまでなかなか敵に当てられなかった銃弾が、やっとまともに当たるようになってきたのである。何かひとつ壁を超えられたような気がして、ちょっと嬉しくて記している。まだまだ上達していきたい。

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