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地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#50】点と、点が。

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どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

毎週恒例の週刊エッセイ、今回で記念すべき50回目となりました。

やっぱね、行動することの大切さを学んだ週になりましたね、結果的に。

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力の抜きかた・入れどころ。【8月21日(金)】

別にすべてを分かったようなつもりじゃないんだけどさ、人間って慣れてくると「力の抜きかた」を覚えるような気がするんだよね。これまでの個人的な経験としては野球やスノーボードといったスポーツが例として浮かぶんだけれども、ひょっとしたら人と人のコミュニケーションもそうなのかもしれない。ほら、初めて会った時は緊張するけれども、徐々に慣れてきたらリラックスできるようになるでしょ。

力の抜きかたをというニュアンスと表裏一体で「力の入れどころ」を覚える、なんて言いかたもできそうだ。何度も経験を重ねると「ここさえ押さえておけばいいんだな」と、いわゆるコツを掴んでくる。要領がよくなってくる。まあもちろん、時間を重ねても一向によくならない時もある。



「生きる」ってことに関して、「嘘をつく」をやめようと思っている。いや、詐欺のようなものは当然いけない。これはつまり、変なプライドを気にして妙な見栄を張ってしまうだとか。そもそも自分が興味のないような話題を、他人に振ってしまうだとか。そういった日常に染み込む嘘というか。最近、きっぱりやめたんだ。そう、これまではやめられていなかったんだ。



嘘をついている時は、やっぱりどうしてもグッと力が入っちゃう。嘘の記憶を溢さないようにするためなのか、辻褄を合わせるためなのか、平静を装うためなのか。その理由はさまざまだけれども、なかなかリラックスはできないと思う。少なくとも僕はそうで、必要ない力が入っちゃう。

そういう時って、僕のスポーツでの経験から言うと「上手じゃない」んですよね。力が抜けてコツを掴めてこそ、ものごとは良い方向に向かうような気がする。まあ全然、科学的な根拠もなく、極めて感覚的な話なんだけれどもね。要するに力感のない、自然体な人間になりたいってことです。


気がつけば、そこに。【8月22日(日)】

志望動機。あるいは自己PR。たとえば、就職活動を経験したことのある人ならば、一度は聞いたことのある言葉であろう。何をどのように伝えるべきか。大学4年生の僕はうんうんと頭を捻らせながら、なんとかエントリーシートを埋めていた。

しかし、結果として、僕はなかなか面接までたどり着けなかった。だいぶ“打率”は低かったと思う。そして今は結局フリーランスとして生きていて、「あーやっぱ会社員って生き方は自分に合っていなかったんだなー」なんて、じつに調子の良い解釈を愛しんでいる。



今日は「応援しあう東北」という地域課題解決的コミュニティ(?)に応募してみた。東北で活躍する実業家をメンターに迎え、個人の思いをカタチにしていくようなプログラムだ。選考も兼ねているという応募書類には、「取り組みたい活動内容と理由」や「どんな未来を想像しているのか」などといった記述を求められた。

すると、今回は驚くほどすらすらと書けた。自分の中でどんどん想いが溢れ出て、指定された文字数をオーバーしないよう抑える必要があったくらいだ。ESに苦戦していた大学時代の僕とは、大違いだった。

その理由はきっと、すでに自分が向かっている方向性と、今回のコミュニティが合っていたからだろう。ここ最近の僕は、まさに東北の地域課題に取り組もうとしている。さまざまなオンラインイベントに参加し、月イチペースで地元の宮城へ足を運び、地方の人との関係性や、また自分の可能性を広げられている気がする。いま思えば、大学時代の僕は周りに流されるように、いわばムリに就活に取り組んでいたのだ。


愛はきっと奪うでも与えるでもなくて
気がつけばそこにあるもの

Mr.Childrenの名曲『名もなき詩』の、あまりにも有名なワンフレーズ。気がつけばここにある。僕の宮城への想いは、まさにこのような感覚だ。別にムリしてつくったものでも、つくられたものでもない。今後はごくごく自然に、地域課題への解決に取り組みたいと思っている。

みんなで価値を考えること。【8月23日(月)】

先ほど、とある東北のイベントのオンラインミーティングに参加した。人数は10名ほど。僕はクラウドファンディングの記事執筆を担当させてもらっていて、東京からリモートで参加している。今年の5月には会場の現地視察にも行ってみた。

話題は、新型コロナウイルスの影響によって、規模の縮小化を余儀なくされてしまったことについて。一度中止を検討しつつも、小さく開催することになった。今日はそのアイデア出しというか、内容や広報について改めて話し合う場であった。

現地で主となって活動している人々が、次々に意見を放っていく。「いいね」と相槌とともに、アイデアが加速していく。しかしそんな中、どうも一部のアイデアに乗り気ではない自分がいた(決して全部ではない)。思考が追いつかないし、ついつい「それって喜ぶ人いるかな…?」と冷めた視点を持ってしまっていた。ただ、それをぶちまけてしまうと空気を壊すことは分かっているから、口を閉ざして必死に理解に努めていた。



「みんなで価値を考える」ことに、むずかしさを感じる。この感覚は今日は初めてではなく、むしろ何度も経験してきたことだ。自分が苦手だったことを、改めて思い出すことができた。

とはいえ、自分ひとりでは生み出せないものが生まれることは確実である。そして、ひとりの時よりも大きなものができあがる。それこそ、フリーランスとしての限界を感じてきた自分が求めているものでもある。



時間や経験がこのモヤモヤを解決してくれるのかは分からない。ただ、今後は、話し合いの中で自分の考える価値や意見を伝えられるよう、努めていきたいと思う。なんとか“打席”に立とうと思う。

たまる一方の消毒用ジェル。【8月24日(火)】

ピンポーン、とインターホンが鳴る。10時半頃、だっただろうか。眠い目をこすりながら小さな画面を見てみると、大きな段ボールを抱えた方が映っていた。「はい」と声をかけると、「宅急便です」と一言。まあ、そうだよね。会社員時代に使っていたシャチハタの、数少ない出番である。

実家からの仕送りだった。一人暮らしを始めて、今年で7年目。でも未だに、半年に1回は必ず、母親チョイスのお米やお菓子などがいっぱいに詰まって送られてくる。最近は、ウイルス対策に関するグッズもやってくるようになった。今回はマスク一箱と消毒用のシート、あと消毒用のジェルは卓上用と携帯用の2種類が入っていた。

ただ、消毒用のジェルは、まだ以前に送られてきたものがいっぱいに残っている。そもそもあまり外に出ないし、出たとしても近所のスーパーやコンビニ程度。また、帰宅後は即座に手を洗う習慣があるから、ジェルはたまる一方である。逆にアルコールで指を痛めてしまいそうである。

とはいえ、「消毒グッズはもういらんわ」とは伝えられない。思えば僕は、「もう〇〇いらないよ」と言ったことはないと思う。「受け取りました。ありがとう」と、LINEを送る。気分が良い時は、スヌーピーのスタンプも添えて。

正直、めちゃくちゃ助かる。いつまでこの愛情に甘えていられるだろう。有り余る消毒グッズは、東京で暮らす我が子への、精一杯のメッセージだ。いや、自分で言うのもヘン感じがするが(笑)、そう思ったら結局、消毒用のジェルも受け取り続けたい。大量のアルコールがどのような結末を迎えるのかは分からないけれども、貴重な実家からの愛だと思って、うちに迎え入れていたいと思う。

点と、点が。【8月25日(水)】

『みやぎ創業ガイド』のオンラインミーティグに参加した。今日の参加者は、スタッフを含めて5名。これから各々が興味を抱く地域の課題を調査し、解決へのアクションを起こしていこうというコミュニティだ(と思う)。今回はキックオフイベントのようなかたちで、それぞれのプロフィールや地域に対する価値観などをシェアした。



昨年9月の「みやぎ移住フェア」に参加してから、僕は地方での活動に興味津々。それでも地域おこし協力隊を全うする自信はなく、どこかの企業に属する気もないから、個人単位で何か事業を起こせないかと考えている。そして、そのために必要なのはまず「人間関係」だと考え、今は月イチペースで宮城を廻り、各市町に知り合いを増やしていた。

とはいえ、一部の人にはただ旅をして観光を楽しんでいるだけだと見えていたらしく、「ぼーの(仮)って、結局なにしたいの?」と言われることもあった。わざわざそんな人の声を気にする必要はないんだけれども、決して気分の良いものではなかった。



しかし、今日、地域に関するミーティングを行なっているときのこと。コミュニティの主催でありファシリテーターを務めてくれたスタッフの方が、参加者の意見に耳を傾けながら宮城県内の事例を挙げていく。すると僕は、そのほとんどを、驚くほどすんなりと理解できた。企業名や活動名、あるいは個人名まで。ただただ1年ほど宮城を旅してきたからこそ、自分自身にインプットされていた情報だった。

点と点が線になっていくような感覚があって、とても嬉しかった。と同時に、過去の自分を肯定してあげられたような気がする。そして、いわば冷ややかな声をくれた人を、見返せたような気分になった。

これからも、自分が信じる道を進んでいこうと思う。まずは今回のコミュニティ活動。宮城がより良くなるため、課題をリサーチしていくつもりだ。

ワタシはボクじゃない。【8月26日(木)】

きのう参加した『みやぎ創業ガイド』主催のオンラインミーティング。宮城県の地域課題解決を志す参加者が集まり、それぞれの地方に対する興味や価値観などをシェアした。スタッフを含めた5人のメンバーは、おそらくみんな同年代で、そして僕が一番歳下のように見受けられた。初対面だったけど和気藹々とした雰囲気で、それぞれが思いの丈をしっかり話せていたと思う。夜に行われたから、誰かの子供の声も聞こえたりした。

ただ、僕が話していたときのこと。なぜか突発的に一人称を「私」と言いそうになった。それなりの緊張から、かしこまっていたのだろう。でも、なんとか心の中で踏みとどまり、普段通り「僕」を使った。

「私」と言ったら、なんだか“負け”のような気がした。それはつまり、変なプライドを伴った“かっこつけ”であり、社会的なモノサシに合わせてしまう自分の“つまらなさ”であり、何より自分自身への“偽り”だった。総じて、とてもダサかった。「私」を使うことで、危うく、ダサくなりかけるところだった。

その時にふさわしい言葉があるという、世の中の仕組みは理解している。理屈は分かっているつもりだ。でも、普段の自分を隠してまで、極端に言えばムリをしてまで生きたいわけではない。「僕」を使ったことで歪んでしまうぐらいの関係性なら、僕はそんな環境いらないと考える。「私」という僕は、僕のようで僕ではないのだ。


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