0→1(ゼロカライチ)

地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#30】居酒屋でラスイチを食べられる才能。

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どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

毎週金曜日に更新予定の「週刊エッセイ」ですが、最近は金曜日に更新できていません。反省です🙄

次回はしっかりやりたいと思います。また、週刊エッセイ以外にも記事を書きたいと思います。


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クリエイティブとは、疑うこと。【3月19日(金)】

毎日チェックしている糸井重里さんの『きょうのダーリン』、今日の冒頭はこんな感じでした。

AIとは、Artificial Intelligenceの略だけど、Artificialというのは「人工の」という意味で、Intelligenceは、まぁ、「知能」ということでいいよね。だからAIとは「人工知能」だということなのだけれど。これ、Assistant Intelligenceのほうがよくない?つまり、人間の「アシスタントをする」知能。…と、こういううまいことを言うのは、だいたい「みうらじゅん」だろうとか思うでしょ?と思ったら、ちがうんですよ、だれが言ったでしょうか。

AIを「人工知能」ではなく、「アシストする知能」と訳すこと。これは糸井さんの意見ではないようですが、僕もほほう、と一本取られたように感じました。



クリエイティブ(と敢えて主語を大きくしますが)を生み出すことは、「疑うこと」でもあるんですね。僕なんか糸井さんのエッセイを読む今朝まで、AIは人工知能でしかないと、すっかり思い込んでいました。もうそれ以上にもそれ以下にもならないと、見向きもしなかったわけです。ただ「ほんとに人工知能か?いやいやアシストする知能とも言えそうだぞ」と、疑いの目を持って接すること。それが新たな価値を生み出すことに繋がるのです。



日常で喩えれば「赤信号を進む」みたいなことでしょうか。当然、多くの人は停止する中で、1人だけ進んだらどうなるでしょう。…いやいやこれは間違いなく、文字通り“痛い目”に合うだけでした。ちょっと喩え話はうまく行きませんでしたけれども、改めて今後は「疑うこと」を忘れず、クリエイティブに挑んでいきたいと思います。

エゴな願い。【3月20日(土)】

ゆったりとした横揺れ。けっこう長い。大きな揺れに備え、一応冷蔵庫や電子レンジを押さえる。そしてこの時点でなんとなく、きっと遠くの方で大きな地震があったんだろうなと勘づく。

揺れが収まり、テレビを点ける。案の定、最大震度5強。しかも我が地元、宮城県だ。さらに日本地図の三陸沿岸部が黄色く点滅している。津波注意報。画面は上空からの映像になる。灯りの少ない夜の石巻。気仙沼。南三陸。ここであの10年前のような濁流が、街に押し寄せてきたら。そんなことを想像すると、不安で胸が痛くなった。

でもなんだか、三陸沿岸部に住む知人たちに「大丈夫ですか?」なんてメッセージは送れなかった。どうも送る気には、なれなかった。きっと家の中はめちゃくちゃで、命はあれど“大丈夫”ではないと思ったからだ。気丈に振る舞わせてしまうのが申し訳ないと思い、僕はただただ無事を願った。本当にシンプルに、生き延びてほしい。そんなエゴで無責任な願いをツイートに込めることしか、僕にはできなかった。

やがて津波注意報は解除された。SNSや連絡ツールでは、無事の報告が多数見られた。大切な人が増えることは、いざという時の不安が増えるということでもあるのだと知った。とりあえず今は、ほっと胸を撫で下ろしている。


「他愛ない」こそ、愛である。【3月21日(日)】

きょう、関東に住む地元の友人たちと会ってきました。小規模な地元の学校で義務教育の期間を共にした彼らとは、高校から環境が別々になっても、通じ合えるものがあります。

彼らと時間を過ごすと、驚くほど頭を働かせずに発言する自分が現れます。さすがに中学生のままの感覚とまではいきませんが、頭に思い浮かんだことをこねくり回さず発言できてしまうのです。普段の仕事でのやりとりに比べると、だいぶ頭のセンサーというか、フィルターがゆるゆるになってしまいます。

そんなこんなで、きょうも“他愛ない会話”に終始しました。なんであんなに、学生時代の話って面白いんですかね。たぶん前に話したような内容も擦っていて、もう嫌になっちゃいますよ。まあ、嘘ですけど。



ところでこの「他愛ない」という言葉、辞書で引くとこの場合【取るにたりない・とりとめもない】という意味になりますよね。そして「他愛」だけ調べると【自分の利益・幸福よりも,まず他人の利益・幸福を願うこと】と出る。つまり“他愛ない会話”は、お互いの利益や幸福などを目的としない会話、ということになると思います。

ただ、ふと思いました。この「他愛ない」を体現し合える関係性こそ、愛にあふれたものではないか、なんて。それは、それぞれを許容し信頼し合えるからこそ、成立する形容詞なのだと思います。思えば今回のような友人関係だけでなく、家族や恋人にも言えることですよね。



「他愛」を考慮しないからこそ「愛」があふれる。うん。日本語って面白いですね。きょうはこんなところで失礼します。

居酒屋でラスイチを食べられる才能。【3月22日(月)】

複数人で飲みに行ったとき、食べものをシェアしますよね。そんである程度みんな食べた後、ふと見ると「ラスイチ(ラスト一個の意)」で取り残されている状態が見受けられます。ぼくは、このラスイチを、躊躇なく食べることができます。というかラスイチを見ると、ムズムズして片付けたくなるのです。最近ではむしろ、このラスイチが好き、なんていう感覚まで芽生えつつあります。

多くの人は、ラスイチになると急に遠慮しだします。なぜでしょう。お皿の上の「1→0」という変化を、より大きく感じているのでしょうか。強欲な人間と思われることを恐れているのでしょうか。食いしん坊だと思われたくないのでしょうか。



お皿の上の「1」を「0」にすることは、誰にとってもポジティブなものだと思います。客にとっては皿が空くからテーブルのスペースが広くなるし、ゆえにまた新たなメニューを楽しめるかもしれません。居酒屋にとっては早くお皿を片付けられるから汚れも落としやすく、また売り上げも上がることでしょう。そして、その食べもの自身にとっても、きっと早めに美味しく食べられた方が本望なのだと思います。

それらを踏まえて、僕はさっさとラスイチを片付けます。そこまで好きじゃメニューじゃなくとも、ラスイチだからという理由で胃に押し込んだ、なんてこともあったかもしれません。



最近、この才能は居酒屋のラスイチに限ったことではないのではないかと感じています。例えば、とあるコミュニティで「そろそろみんなで集まりたいよね〜」となっている雰囲気の時。みんな口では会いたいと言うんだけれども、実際は話が全然前に進まない、みたいな状況があると思います。少なくとも、僕はこれまで何度も経験してきました。

そうなると、僕はさっさと場をセッティングします。時間を合わせて場所を決めて、必要ならばお店を予約するのです。「やりたいんだけどやらない」みたいなグレーな状態で漂っているのが、とてもムズムズするのです。そうです、それはまるで、お皿の上にラスイチが残っているような状態。パッと食べちゃった方が、つまりさっさと話を前に進めちゃった方が、誰にとってもポジティブなものになると思うのです。



なんだか今日、そんな自分の才能に気がつきました。ラスイチを食べられることは、話を前に進められること。もしこれを同じ部類の方が読んでいたら、とても嬉しいです。互いに胸を張って、生きていこうじゃありませんか。

インタビュアー・松岡修造。【3月23日(火)】

糸井重里さんとの対談記事を読んでから、松岡修造さんが気になる存在になっています。もちろん彼が日本の歴史に残るテニスプレイヤーだったことは承知の上で、今はキャスターとして、あるいはインタビュアーとしての彼の活動が目に余ります。おとといも『GET SPORTS』という番組で、メジャーリーガーのダルビッシュ有選手にインタビューしていました。

松岡さんの特徴は、そのインタビュイーと向き合う姿勢にあると思います。スーツ姿で、とにかくまっすぐに、身体と目を向けます。そして基本的に、彼の手元には何もありません。たとえば台本であったり、相手の言葉を書き留めるメモであったり、情報をまとめたノートであったり。そんなものは一切持ちません。

これは僕の予想なんですが、おそらく相当な準備を経てインタビューに臨んでいるのだと思います。あらゆる発信に目を通し、自分の中で何度もシミュレーションを重ねていることでしょう。また、一瞬でもインタビュイーへの想いが逸れることを、避けたいのかもしれません。だから彼はきっと裸一貫で、おもに一流アスリートと対峙できるのです。

そしてその真摯な人間性が伝わるから、インタビュイーも真摯な気持ちで接することができます。アスリートがアスリートたる強さや、逆にその姿からは想像できないほどの弱さが、松岡さんとのコミュニケーションによって明らかになります。その都度、松岡さんは心の底から感動し、心の底から驚き、心の底から疑問に思うのです。あとはもう、その繰り返しです。



自分も取材する身ですし、他の誰かの取材を記事にすることもあります。そんな日々の中で、ふと、おとといの松岡さんの姿が頭に浮かびました。プロとして彼の姿を見習わなくてはなりません。

もっとnoteを読み合いたい。【3月24日(水)】

きょうは「noteを読み合う会」というオンラインイベントに参加しました。結論から言いますと、めちゃくちゃ楽しかったです。

70名ほどの参加者がzoomのブレイクアウトルームによって4〜5名に分けられ、チャットで共有した互いのnoteを読み合うというもの。5分で各々が黙読して、その直後の5分で感想を語り合いました。

僕はこのnoteで、おもに内省や文章力の向上のためにエッセイを書いています。ただ今回は、日々シナリオを書く鍛錬をされている方と、まさに創作的に小説を書いている方と、日常のふとした気づきをマンガで描いている方の3名という、じつにバリエーションに富んだ組み合わせとなりました。まずこの時点で、多種多様なnoteの活用法や世界観を感じられて良かったと思っています。

そして何より、“創作好き”同士で盛り上がれたことを嬉しく思います。ある方は「互いに話している雰囲気が妙に落ち着くんですよね〜」と言っていましたが、まさに僕もそんな感覚を覚えました。なかなかリアルな生活の中で、noteのアカウントを使って創作を発信している人なんて出会えませんからね。なんというか、クラスの端っこの方で密かに盛り上がっていた人(良い意味で!笑)同士が、やっとめぐりあえたような。そんな感動めいた嬉しさもあります。

ブレイクアウトルームが終わって参加者全体の顔が見えると、皆さんとても良い顔をされていました。きっと僕も、良い顔をしていたと思います。きっとめちゃくちゃ楽しかったから、ですね。今回は時間があっという間に感じました。ぜひまた次回も参加して、もっとnoteを読み合いたいと思っています。


卒業。【3月25日(木)】

一時期、「卒業」という言葉がやたら使われていた印象があります。おそらく、某アイドルグループ内でそれが相次いだからでしょう。

個人的に僕は、その言葉に込められた「やたら美化されるような感覚」が苦手でした。卒業と言っていれば、なんだか華々しい感じが伝わってきます。だから昨年の1月、欅坂46の中心的存在だった平手友梨奈さんが「卒業」ではなく「退団」という言葉を使っていたのが印象的です。ひょっとしたら僕は、彼女と同じような違和感を感じていたのかもしれません。

ただ、最近はやっぱり「卒業」って良い言葉なのかもなあ、と思っています。というのも最近は年度末ということで、改編により(おもに情報系)番組のキャスターの卒業を多く目にします。きれいな花束を手に瞳は潤む中で、裏方のスタッフたちと記念撮影。そんな愛に溢れた様子を突き付けられると、自分はそこまで斜に構えなくていいような気がするのです。

アイドルグループのおかげで一時は苦手になった「卒業」ですが、やっぱりポジティブな言葉だと確かめられました。しかしながら、改めて辞書で引いてみると、以下のような意味が追加されていたようです。【所属するグループやレギュラー番組を辞めること】。いやもう、アイドルの乱発は理にかなっていたんか〜い。


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