0→1(ゼロカライチ)

地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

【Sponsored Links】

【週刊エッセイ#58】言葉は自分の外にある。

f:id:nobo0630:20211210022628j:plain

どうも、ぼーの改め大村(@nobo0630)です。

12月も10日を過ぎて、もうすっかり寒くなってきましたね。

先週の金曜日で、毎日書いているnoteの連続更新が700日を経過しました。

あまり「スキ(いいねみたいなもの)」は付いていませんが、さほど気にすることなく継続しようと思っています。

シンプルに、書くことが好きなのでね。

▼noteではエッセイを毎日更新中▼
note.com

700日。【12月3日(金)】

どうも、おはようございます。いつも1日の終わりに書くことにしているnoteですが、今日は心機一転、朝イチに書いてみようと思います。理由はそうですね、“なんとなく”です。せっかくですから、頭の体操ということにしてみましょう。

さて、今日でnoteの連続更新が700日に到達しました。ここまで継続できたことに関しては「よっしゃ!700だ!」というより「あ、700か。」というテンションです。100日を迎えるぐらいまでは上がっていましたが、今のそれは横ばい。むしろ更新ボタンを押せた安堵から下がっているかもしれません。毎日の寝落ちやネタが浮かばないことに怯える日々です。

怯えるぐらいならやめてしまえばいいじゃないか、なんて声を放つ自分もいます。そんなにストレスなら、いっそ離れてしまえばラクなのではないかと。しかし結局今日も、また性懲りも無く更新しています。こうして文字や自分と戯れていることで、生きている心地がするんでしょうね。やや大げさな表現ではありますが。

つまるところ、生きていく上でそれなりのストレスは不可欠なのだと思います。ストレスというか、負荷というか。決して走らなくても、長い距離を歩いていればお腹が減ります。足が痛くなります。ココロが退屈になることもあるでしょう。そんな諸々の問題に直面しても、辿り着きたい場所があります。ずっと見ていたい景色があります。だから今日もこうして、たとえ他人からはどれだけゆっくりに見えても、自分なりに歩を進めるのです。

ひっそりと掲げる今後の目標は、そんな他人からの評価を上げることなのかもしれません。極端に言えば、エッセイでお金をいただけるようになること。そのために解決すべきは文章力や思考力の問題だけではないかもしれませんが、まずはいのちあるかぎり、あるいは寝落ちしないかぎり、文字を紡いでいたいと思っています。

「意味わかんない」は褒め言葉。【12月4日(土)】

今秋から参加しているマイプロ的コミュニティ『応援しあう東北』のメンタリングが、きのうで最後を迎えた。僕は当初、新たな魅力や関係人口の形成を目的として、地元の宮城県美里町を舞台としたコミュニティ活動『みさと大学』を展開することを目標としていた。ただ、およそ3ヶ月間の活動を経て、現在は必ずしも美里町での活動に固執することもないのではないか、という考えが芽生えている。

その要因となっているのは、個人的にここ1年ほど地域のさまざまな方と繋がりを得られていること。Uターンを考えて地域に顔を出すようになったら、その「人」や「余白」の面白さにのめり込み、月イチペースで宮城の各市町を訪れるようになってしまった。それぞれの街にはそれぞれの魅力があり、僕はいずれも好きなのである。そこで、『みさと大学』と銘打ちながらも、もっと宮城の広域的な人々と関われるコミュニティにできないかと考えたのだ。

この思いをメンターの方に話したら「のぼさんならではで面白いと思うし、1回馬鹿馬鹿しいアイデアベースでもいいから、せっかくならちゃんと設計を考えてみるべきだね。『みさと大学』といって美里にこだわらないとか、ほとんどの人は意味わからないと思うけど(笑)」と言ってくれた。そして僕が「ありがとうございます、考えてみます。なんか『意味わかんない』って言われるの良いですよね(笑)」と言うと、メンターは「あーそのセンスは大事だね」とも言った。

その理由は「『意味わかんない』って言葉は私も大事にしていて、褒め言葉だと思ってるよ。周りの人の考えが追いついていないところにいるってことだからね」とのこと。既存の概念では処理できないような新しいことが、自分の頭に広がっているということだ。僕はこれまでそんな感覚を抱くことが少なくなく、おこがましい話だが、共感できて嬉しかった。

意味わかんないなりにこれから納得させることが大切だし大変ではあるが、なるたけ心の真ん中のほうに置いておきたい感覚である。今回の『みさと大学』に限らず、これからの地方との関わりかたも含めて、既存の概念に頼ることなく自分だけの“答え”を見つけ実践していきたい。「意味わかんない」と言われることをひとつの道標に、歩みを進めていこうと思う。

めちゃくちゃ会いに行く。【12月5日(日)】

地方での活動に興味を抱いてから、フットワークの軽さを特に意識している。何かイベントに誘われたり誰かを紹介してもらったりしたら、スケジュールの都合がつく限り、とにかく現地へ足を運ぶのだ。

都会との二元論にするつもりはないが、地方は特に人間関係からものごとが発展していく。いや、あくまで個人的に思っていることであり、そのような広がり方が僕は好きなだけだ。だから最近は、めちゃくちゃ会いに行くようにしている。悩んでいるヒマがあるのなら、さっさと会いに行った方が答えが出る。ものごとが前進する。そして大抵、会いに行くとめちゃくちゃ喜んでくれるのだ。

この行動の裏には「自分は大した人間じゃない」「会いに行くことしかできない」などといった考えがある。決して謙遜や悲観をしているわけじゃない。ただの事実だ。ほんとうに、そうなのである。

しかし、地方の人たちはそんな僕を「いやいや、そうやってすぐ動けるのが良いところなんだよ」と諭してくれる。大概の人は、迷って悩んで、結局姿を見せないらしい。そんなこんなで僕は「いやいや、そんな…」と照れながらも、アイデンティティじみた嬉しさを噛み締めるのである。

今も仙台から東京へ向かう夜行バスの中。さっきまで地元の宮城県美里町の方が主催するイベントに参加してきた。ここ1ヶ月はほぼ週イチペースで宮城に通っており、正直いろいろキツい部分もあるが、未来への種蒔きと捉えて行動していきたい。

モヤモヤでモヤモヤする。【12月6日(月)】

モヤモヤとした気持ちに直面すると、「いったいこのモヤモヤは何なんだろう」と、またちがったモヤモヤが顔を覗かせる。特にこのnoteの更新を習慣にしてから、言語化することにより多くの体重をかけるようになった。少なくともむかしよりは、上手になっていると信じたい。

最近のモヤモヤは、コミュニケーションに関してである。「どうしてあの人の言動はモヤモヤしてしまうのだろう」や「自分にはどんな責任があるのだろう」なんて考えている。今回のこれは、なかなか答えが出なくてもどかしい。アレコレ考えられる面白さも少しあるが、基本的にモヤモヤはない方がいいだろう。まあ、コミュニケーションには付き物なのかもしれないが。

とりあえず今は、そんな“あの人”との時間を「勉強だ」「経験だ」と思い込もうとしている。ある期限でその人との活動はひとまず終わるから、それまでの辛抱だ。今は自分がこれまで頑なにフリーで生きてきたツケを払っているのかもしれない。メンタルや言語化のトレーニングと捉えて、もう少しの間モヤモヤしていようと思う。

「知らない」は恥ずかしくない。【12月7日(火)】

気がつけば僕らは、「えーそんなことも知らないのー?」なんていう世界にいた。ランドセルを背負っていた頃の話だ。僕も平気で、いやむしろ得意げに、そんなセリフを言い放っていたと思う。気がつけば「知らない」ことが「恥ずかしい」ことにもなっていた。

しかし、ランドセルをとうに下ろした今、僕はむかしの自分のような人を遠ざけて生きたいと考えるようになった。つまり「えーそんなことも知らないのー?」なんていう感覚を持っている方だ。決してその感覚を否定することはないが、僕とは違うところでブイブイ言っていてほしい。むかしの自分は“そっち側”だったのだけれども。

大人の世界は、かつての教室よりもはるかに広い。いや、この場合は教室が狭いのだと言うべきなのかもしれないが、さまざまな境遇を持った人が存在する。それは決してわるいことではなく、むしろ僕はそれが面白い部分だとも思えている。そんな中で「えーそんなことも知らないのー?」と言い放つこと。つまり自分のモノサシを他人に当てがうことが、いかに無粋なことか。あまりにも思いやりを欠いた、独りよがりな言動ではないかと思うのだ。

つい先日、僕はまさにそう言われた。「え、29歳?それなのに〇〇も知らないの?」と。別にその驚きは否定しない。その人にとって、そう驚いてしまうならば仕方ない。ただ、ちょっとだけ自分とは離れて生きていてほしい。いやいや、僕が離れましょう。「知らない」ことを「恥ずかしい」と思わず、むしろこれから知れる・学べるんだと思って、なるたけ自分の無知を隠さずに生きていたい。知らないものは知らない、それは誰だってそうだろう。

800円の証明。【12月8日(水)】

北千住駅構内のスタバにいる。斜め前に視線をやると、制服姿の女子高生が証明写真をハサミで切り取っている。バイト先への履歴書や進学先への願書を仕上げているのだろうか。いや、ひょっとしたら受験票か何かなのかもしれない。がんばれ、学生よ。

ふと思ったけれども、証明写真って不思議なものだ。おもに社会に対して、“自分自身を証明する写真”。街角の何とも言えない場所に設けられた個室にて、800円ほどで撮影できる。誰とも接することない、ひとりきりの自分が映る。つまりそれこそが、社会に示すべき姿ということなのだろうか。その姿だけで、自分自身を証明できているのだろうか。自分の全てを示すことは不可能だとしても、いったい何を証明できているのだろうか。

フラッと個室に入ってシャッとカーテンを閉めて800円でパシャっと写真を撮って。それだけで自分自身を証明できたら、掌握できたら、どれだけラクなのだろう。いや、もはやそんな世界はつまらないのだろうか。自問自答を繰り返す日々の中で、証明写真という概念は憎たらしくもあり、羨ましくもあるのである。

言葉は自分の外にある。【12月9日(木)】

今秋から参加していた『応援しあう東北』というマイプロ的コミュニティが、いったんのフィナーレを迎えた。「みなさんお疲れさまでした〜」「ありがとうございました〜」なんて言いあった。とはいえ、とあるメンターの「これからが始まり」という言葉の通り、Slackを中心に今後もコミュニティは回っていくのだろう。僕個人としても、より多くの人と繋がりたいと思っている。

4〜6人ほどで分けられたクラスにて、「のぼさんは言葉を持ってるのが魅力だよね〜」と言われた。それまでの“ホームルーム”と言われる集まりでの言動や、SNSを発信を見てそう感じてくれていたらしい。僕にとっては、とても新鮮な感覚だった。言葉を持っているのは、僕ではないと思っていたからだ。

僕はコミュニティで人と出会ったり話したり、つまり外的な作用を受けて発言していただけだ。だから僕自身はむしろ“空っぽ”で、周りのみなさんが僕に言葉を授けてくれたという感覚である。だからこそ、そこに後の評価につながる「共感」が生まれていたのだろう。極端な話、僕がひとりぼっちだったなら、何にも口を開けていないはずだ。何の文字も紡げていないはずだ。

思えば『応援しあう東北』に参加できたおかげで、いくつかのnoteのネタも稼げた。いや、そうじゃないな、新たな発見が増え、自分の価値観も広がった。人脈もそう。初めて知った地域もあったっけ。もはや言葉だけに限った話でもなくなってきたが、僕は外的な作用を通じて、それなりに言動を重ねていたのだろう。だから、繰り返しになるが、僕自身が言葉を持っているわけではなかったと思っているのである。

▼noteではエッセイを毎日更新中▼
note.com

【Sponsored Links】