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地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#59】何者。

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どうも、ぼーの改め大村(@nobo0630)です。

2021年も残りわずかとなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。

僕は相変わらず、もっとブログの更新頻度を上げなきゃなあと思い続ける生活を送っています。

また仕組みから考えていきましょう。🙄

今回も週刊エッセイをよろしくお願いいたします。

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事実と解釈。【12月10日(金)】

東北の今をみんなで伝える住民参加型ニュースサイト『TOHOKU360』さんが主催する「東北ニューススクールin宮城野」という企画に参加してきた。仙台市宮城野区中央市民センターさんと同メディアがコラボし、我こそはと集った参加者たちは地域活動を取材。その模様を記事にして、参加者同士で批評しあうというものだった。

僕は先月上旬に宮城へ行った際に、ちゃっかり取材を敢行。仙台での地域活動を体験させていただき、何とかかんとか提出に漕ぎつけた。そして今日は、その批評会がオンラインで行われた。自分の記事を画面越しに堂々と読まれ批評されるのは、なんだか緊張もして恥ずかしくあったが、とても実りの多い時間を過ごすことができた。

個人的な反省を言うとするならば、僕はあまりにも「事実」を並べ過ぎた。活動を企画した人、運営した人、参加した人など、当日それぞれから聞いた情報を並べただけ。自分以外の記事と比べてみると、とても単調な記事に仕上がっていた。

必要だったのは「解釈」だったように思う。つまりその事実があった上で、それぞれの人々がなぜ活動しているのか、あるいはどのような出来事がきっかけとなったのか、など。「“だから”こう思いました」と、事実を掘り下げる作業が必要だったように思う。僕は、ただ事実を並べるだけで満足してしまっていた。

今後はひっそりと運営しているブログも駆使しながら、「解釈」の部分をしっかりと機能させられるように努めたい。事実の上で「“だから”こう思いました」と、深みをつくるのだ。今回の企画参加を通じて、「書く」に関して、改めて学びを得られた。良い意味で自信をなくすことができたと思っている。

好きは好き。分からんは分からん。【12月11日(土)】

noteさんのYouTubeの『ライターの未来』を視聴した。常日頃から「書く」に携わるものとして、あるいはこれからの生き方を模索するフリーランスとして、多くの金言にあふれていたと思う。

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特に僕の心に刻まれたのは、大きく分けてふたつ。ひとつは、分からないものは「分からない」とはっきり示す取材者としての心得である。個人的に憧れのライターでもある古賀さんは、「ライターの苦手は得意と同等」と仰っていた。つまり、自分が理解できていない分野こそ、“一般読者代表”としてその理解の筋道を示しやすくなるということだ。苦手なりに取材対象者へ質問や疑問を投げることこそ、正確な深みのある記事を生み出してくれると解釈した。

そしてもうひとつは、自分の好きなものを取り上げる、あるいは掘り下げるテーマを扱うことだ。やはり「好き」に勝るエンジンはないとおっしゃっていたように思う。「読まれる分野」へ自分を寄せるのではなく、「書きたい分野」をかたちにすることが重要なのだ。サムネイルにもあるように「だれもが書き手になれる」今、自分が興味のないことは他の誰かが書いてくれる。自分はそれまでの経験や想いを胸に、興味の向く分野や人を掘り下げるべきなのだろう。

好きなものを好きと言い、分からないものは分からないと言う。一見シンプルだが、意外と簡単ではないと僕は思っている。だからこそ、価値があるものなのかもしれない。改めて自分に何ができるのか、自分が何をしたいのかを考えていたい。

帰属意識。【12月12日(日)】

知り合いのカメラが得意だったりデザインが得意だったりする、いわゆるクリエイターの方とチームを組み始めた。現在の主要メンバーは、僕も含めて4名。どうやら地方のクリエイティブを主戦場として活動していくらしい。まだ始まったばかりだから、詳しいことはあまり分からないけれども。

ただ、ここ最近で個人的には変化があった。チームへの「帰属意識」が芽生えたのだ。たとえば、これまではどうすれば自分のインプットやスキルアップを叶えられるか、ばかりを考えていた。しかし今は、自分のその活動が、チームのためになると感じられている。つまり、自分のためだけでなく、誰かのためにも生きられていると思えるのだ。

最初は何かプロジェクトができればいいね〜なんて思っていただけ。しかし、このような効果があったとは、じつに嬉しい誤算である。

宿題からは逃れられないけど。【12月13日(月)】

おい、そこの勉強せずに部屋で横になって天井を見つめる高校時代の俺。大人になったら宿題だとか勉強だとか、そんなものから解放されると思ってるだろ。それは見当違いだ、すまんな。別に悲しませるために意地悪を言っているわけじゃないぞ。むしろこれは親切だ。いわば、愛だ。

大人になると「●日までに▲▲をやる」ってことが多いんだ。そう、宿題みたいだろ?少なくとも、大人になった俺はそんな宿題を必要とする生き方をしちまっている。お前みたくベッドに逃げてしまう気持ちをグッとこらえて、なんとかかんとかやっているよ。つまり結局、宿題だとか勉強ってのは、大人になった時に困らないようにする訓練だったみたいだ。ま、そう聞いても全然ピンとこないんだろうけど。そう簡単に信じないだろ?よし、それでこそ俺だ。

でもな、宿題から逃れられないことは、そんなに悪いことでもない。仕事仲間とこなすプロジェクトの中にはそれぞれの役割があって、自分がすべき宿題ってのがあるんだ。頼りにされるぶんプレッシャーもある。だからこそ、上手くできた時の喜びってのもある。だから、学校から渡される宿題とはちょっと違うかもな。ま、大人になったらきっと分かるさ。

おっと、そろそろ宿題をしなくちゃいけないようだ。俺は相変わらず夜型の人間だ。チョコレートを齧りながらラジオ番組を流し、受験勉強に明け暮れた日々と変わっちゃいない、安心しろ。また一方的に話すわ、じゃあな。

笑ってくれる人。【12月14日(火)】

人を笑わせること、結構すきです。基本的に、くだらないことをボソッと言うプレースタイルでやらせてもらってます。小学校の頃からあんまり変わっておらず、気づけばアイデンティティのひとつになっていました。

僕の周りにはそのちょっとした“ボケ”聞いてくれて、そして笑ってくれる人がいました。いつかのnoteに書きましたが、その笑いってのは「共有」や「許容」で、つまりとても僕にとって、いつだってとてもポジティブなものです。あと単純に、笑いを取れることが嬉しかったりもします。

最近、そんな笑ってくれる人のことは、笑わせることよりもすきだなあと気がつきました。リモートで画面越しにでも笑ってくれる人、最高ですよね。なんて優しい心の持ち主なのでしょう。無人島に連れて行くべきは、そんな笑ってくれる人なのかもしれません。いや、ちょっとよくわかりません。

決して自分が笑いを生み出しているわけじゃないんですよね。ある人の、優しい心によって、自分が嬉しい気持ちになれるんです。そのバランス感覚、崩しちゃいけないなあと思いました。別に謙虚になるとか、そういう話じゃありません。割とニュートラルに考えられるお話です。

荒れた手と僕の冬。【12月15日(水)】

僕は毎年、冬になると手が荒れる。物心ついた時からそうで、むかしはよく指先がパックリ割れていた。アトピーを抱えていることもあり、多くの人と比べて地肌に問題があるんだな〜なんて、あんまり気にしていなかった。今は手のひらが荒れるようになったが、もうすっかり“普通”なのだ。「今年も冬が来たな〜」なんて、まるでメルティーキッスのような感覚で荒れた手を見つめる。

ただ、多くの人にとって、この荒れた手は普通ではないようだ。まあ、そりゃそうか。「どうしたの?」「痛そうだね〜」「クリームあげよっか?」なんて声をかけてもらうことはしばしば。僕はけろっと「いや全然痛くないっス」「普通っス」なんて返すんだけれども、最近はこのやり取りまで含めて、“僕の冬”なのかもしれないと思い始めた。

そんな中、つい先日は新たな展開を見た。とあるコミュニティにて手相が判るという女性に手を見せたところ、「あら、こんな手じゃ運気が下がるわよ」との言葉を頂戴したのだ。いわばスピリチュアル的な感覚をあまり信じない僕は「あー運気って概念は斬新ですね〜」と、至極正直な感覚と、ちょっとした“バリア”を示した。新たな角度で否定されたような違和感を抑えられず(あ、あんまり近づかないで)と思ってしまった。まあ、それこそそれぞれ異なる“普通”があるのだから、仕方のないやり取りだったと思いたい。

たしかに荒れた手を持っている僕にも責任はある。新たな角度の指摘に対応しきれなかった器の小ささも感じる。ただ、誰かの”普通”を侵すようなコミュニケーションは、僕自身も気をつけたいと思った。手相を見られるという女性は別に嫌な人ではないのだけれど、正直ちょっと今後お会いするのが怖くなってしまった。思えば、彼女なりのありがたいコミュニケーションだったのだろうけれども。

何者。【12月16日(木)】

noteを毎日書いている。なんでと訊かれたらそれは、まずひとつは書くことが好きだから。そしてひとつは、僕が憧れる物書きの方々がほぼ毎日書いているからだ。糸井重里さん、あるいは古賀史健さん。おふたりのような、何気ない日常に気づきを与えてくれるような文章を紡ぎたくて、“鍛錬”という意味での継続でもある。彼らが書くなら、僕も書かなきゃ。会ったこともないけれど、ただただおこがましいライバル意識が、今日も僕にnoteを開かせる。

ゆくゆくは、僕も文章を通じて見ず知らずの誰かの心にお邪魔したい。何らかの気づきや発見などといった「おもしろ」をお届けしたい。そんな現象を夢見る自分もいる。

とはいえ、その夢からは今、だいぶ離れているように感じる。というのも、記事の「プレビュー数」があまりにも低いのだ。おそらく、ここの記事を読んでくれている人は、ある程度僕のことを知ってくれていて、そして気にかけてくれている人。つまり、「何を書いているか」より「誰が書いているか」が重要な“入り口”となっているように感じる(自分の文章力を棚に上げているわけではない)。

思えば僕も、糸井さんや古賀さんをどのような人物かある程度理解した上で、文章を読み進めていたように思う。そういった意味では、こっそりnoteを購読しているオードリーの若林正恭さんなんて、最たるものなのかもしれない。まあ残念ながら、彼は毎日書かないけれども。

「何をどのように書くのか」を大切にしたい、そこと向き合っていたいという気持ちも保ちつつ。その文章を広めるべく「自分が何者か」を示すことも意識したいと思った。書くことだけじゃなく、届けることも考えていたい。

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