0→1(ゼロカライチ)

地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

【Sponsored Links】

【週刊エッセイ#60】2022年の目標は。

f:id:nobo0630:20211225200526j:plain

どうも、ぼーの改め大村(@nobo0630)です。

クリスマスですね。いかがお過ごしでしょうか。

とりあえず今週も、週刊エッセイよろしくお願いします!

▼noteではエッセイを毎日更新中▼
note.com

全力とは。【12月17日(金)】

今が理想と遠く離れていたって、目の前の仕事に全力で向き合い取り組めば、その姿や成果はきっと誰かが見てくれていて。そしてその結果、自分の理想と近づいたり、また新たな可能性の扉が開いたりする。そんな社会のルールのような話を聞いたことがある。たしかに言われてみれば、目の前の仕事をいい加減にこなしてしまうような方の周りには、あまりすてきな人が集まってこないような気がする。

僕は正直、まだこの「全力が人を呼ぶ現象(?)」を体感したことがない。最近は地方の方からお仕事を振っていただく機会も増えたが、それは別に僕の能力や姿勢を評価してくれたものではないだろう。おそらく、何度も会ったことで生まれた人間関係から派生したものだ。

恥ずかしい話ではあるが、全力とはなんだろうか。思えば僕はこれまでの人生で、「全力を出し切った!」と思えたことがあまりない。強いて言うなら、高校受験の時の勉強ぐらいだろうか。いや、やっぱりもうその時の記憶や感覚はおぼろげである。

今の自分で改めて全力を考えてみると、おそらく「もうこれ以上施しようがない!」という状態なのだろう。プロ野球のピッチャーで喩えるならば、「俺の球を打ってみろ!」と思いきり腕を振っているイメージ。その球威はバッターを打ち負かすかもしれないし、逆にもちろん打ち返されることもある。ただ結果とは関係なく、そのピッチャーにとっては、もうそれ以上のボールは投げようがない。余力は残っていない。打たれたら、それまでだ。

常日頃の中で、自分はそこまで腕を振り切れているのだろうか。ライターとして、余力を残しているような気分になってはいないだろうか。こんな問いが浮かんでくる時点で、もう答えは出てしまっている。そう気づけたことをポジティブに捉えて、今度は全力の出し方について、それこそ全力で考えてみようと思う。

あたらしいって、むずかしい。【12月18日(土)】

有楽町で開催された宮城県栗原市の「地域おこし協力隊募集説明会」に行ってきた。正直、そもそも僕は協力隊になることをあまり考えていない。ただ、僕を「ノボちゃん」と呼んでくれる市役所の職員さんも上京されるということで、彼らに会いに行くためイベントへ足を運んだ。

コワーキングスペースを貸し切って行われた今回の説明会には、田舎での生活を検討する方々が集まっていた。単身の方もいればご夫婦の方もいて、ゲストスピーカーとして訪れていた現役の協力隊やそのOBも含め、積極的な質疑応答(というか雑談)が行われていたと思う。“栗原らしさ”を感じさせる、とても良い雰囲気だった。

イベント終了後、僕は市役所の方から「一回来てみたら?」と言われた。試しに住んでみたら?の意味だった。「ノボちゃんなら今のライターの仕事を続けつつ、協力隊やってもいいと思うけど(笑)」と、あくまで表情はにこやかながらも、彼らの核心に迫るような問いかけだった。そういえばこの間は、同じ宮城の東松島市の方からもそんな声をかけられた気がする。

まあ、地域の方々が僕に対して“痺れを切らす”気持ちも分からなくもない。1年以上も前から宮城へのUターンを検討していると言って、お試し移住という行政の仕組みだって何度も利用させてもらった。それでも僕はまだ、東京で暮らしているのだ。「もうそろそろ移住してもいいだろ」と考えるのも頷ける。

ただ、僕にとっては、移住や協力隊というステップを踏まなくとも地域との関わりを持つことが自分らしいのではないか、なんて感じてしまってもいる。今の生きかたが面白い。もっと可能性を探っていたい。しかし、きっと行政の方にとっては“新しい”ありかたであり、僕の考えかたとのギャップは正直やや窮屈なものだ。彼らを見ると、小さな罪悪感も芽生えたりする。

とはいえ。

やっぱり自分の感覚を信じていたい。従来のかたちとは異なる生きかた。それを証明するのは難しいけれども、そのためにまず信念と説得力を身に纏おうと思う。逆風にグッと耐え、ググッと歩を進める身体だ。Mr.Childrenの『終わりなき旅』を聴きながら、改めて自分と向き合っている。

好きを極めし者たち。【12月19日(日)】

M-1グランプリを見た。50歳と43歳のコンビの優勝は、17度目を数えるM-1の歴史で最年長のチャンピオンらしい。優勝が決まった直後、錦鯉のボケ担当・長谷川雅紀さんは人目を憚らず涙を流し、その様子を見届けた審査員の皆さんの目にも光るものがあったと思う。

イチ視聴者である僕にとってM-1は、「自らの“好き”を極めた者たちのショータイム」である。決勝に進出した芸人さんたちの平均年齢は30代(おそらく)で、社会からの逆風や自らの葛藤も数多くあっただろう。きっとまじめに働く同級生たちは、しっかり稼いで出世して、家族を養っていることだろう。それでも、ひたすら「漫才」や「笑い」と向き合い続けて、苦しみもがいて、そしてたどり着いた地上波の決勝戦。僕は、彼らのような生き方に憧れているものとして、今日その戦いを最後まで見ていた。

M-1が来ると、年の瀬だなあと思う。もうすぐ2022年がやってきてしまう。今の僕は、自分の“好き”と向き合えているだろうか。“好き”を極める準備はできているだろうか。今日の芸人さんたちの姿を受け、改めて自分に問いかけたいと思った。

自分への「ごめんなさい」。【12月20日(月)】

今秋から今月上旬まで、東北の地で自分の「好き」や「目標」を実現する『応援しあう東北』というコミュニティに所属していた。29歳以下の参加者50名ほどが10クラスに分けられ、それぞれの活動や思いをシェアしながら時間は進んだ。一応オフィシャルな活動期間は終わったものの、Slackは今なお生きている。

同コミュニティで僕は、生まれて初めてメンタリングを経験した。東北で現役バリバリに活躍している実業家の方に時間をいただき、1ヶ月に1回の合計3回、おもに自分のプロジェクトについてzoomで話をさせてもらった。その中で、印象的だったことがある。

3回目のメンタリングの時のこと。2回目のそれを終えてからあんまり行動を重ねられておらず、僕はついメンターに「いやあ、ごめんなさいって感じなですけど…」と話し出した。するとメンターは、すかさず「いや、私は関係ありません。それはのぼさんが自分に対してごめんなさいですよね?」と返してくれた。

まさにその通りだと思った。自分がやらなかったら、仕事ならもちろん他の人に迷惑をかけてしまうが、その先には未来の自分自身にも迷惑がかかる。評価を落とした自分。できない自分。自分との約束を破る自分。あのメンタリングを終えてから、自分への「ごめんなさい」を意識して生きるようになった。ふとした時に浮かんでくる言葉だ。だから僕は、未来の自分から「ありがとう」と言われることを願って、活動を重ねていきたいと思う。

2022年の目標は。【12月21日(火)】

気づけば2021年も、もう残すところあと10日ほどになった。もちろん年内にまだまだやるべきことはあるのだが、今日はなんとなく2022年の目標を考えてみる。備忘録として、ここに記してみる。

一番に浮かんだのは「もっと地方に価値を生み出す」となった。あえて言えば「もっと稼ぐ」となるだろうか。昨年の9月に宮城県の人々と知り合ってから、今年はライターとしてちょこちょこと仕事を振ってもらう機会が増えた。どの機会も本当にありがたく、そして楽しく仕事をさせてもらったが、来年はそんな機会をもっともっと増やしたい。より宮城に居る時間を増やしたいと思っている。

そのために、もっと積極的に多くの人と知り合いたいと思っている。宮城出身としてまずは人間関係を構築して、そこからその地域や人々の課題を解決するのだ。僕のクリエイティブ仲間も引き連れて、より広い課題を解決したい。さまざまな仕事の生まれ方の中で、僕はこのルートが今のところもっとも好きなのである。

そして来年は、自分からの発信力ももっと強めたいと思う。地域の課題を待つばかりではなく、自分の存在を伝えることで関係性を築けたらなあとも思う。より一層、SNSに力を入れていくつもりだ。力の入れ方も、しっかりと考えていきたい。

個人的に、来年はいよいよ30歳を迎える。小さい頃に想像していた三十路像とはだいぶかけ離れているが、これはこれでわるくないということにしておこう。あとはサッカーのW杯もある。Mr.Childrenのデビュー30周年ライブツアーも(おそらく)あるだろう。よし、来年も前向きに生きていこう。

接客という概念が。【12月22日(水)】

スターバックスとマクドナルドを利用した。いずれもアプリを使ってオーダーし、ネット決済で商品を受け取った。つまり、カウンターで店員さんと接することなく、お店を楽しんだということである。

モバイルオーダーは、とても便利だ。行列をつくる他のお客さんを尻目に、席で座りながら商品を待つことができる。高みの見物じゃないけれども、優越感じみた感覚もいっしょにコーヒーやハンバーガーを味わった。

今日の僕にとっては、接客という概念がなくなりつつあった。とても便利であるとは思うが、店員さんとの触れ合いがなくなるのは少し寂しく思う。むしろ、スタバのスタイリッシュでチャーミングな店員さんとは積極的に絡んでいたい。いや、結局そこまでヘンなことはできないのだけれど。

もしかしたら今後は、キッチンにも店員さんがいなくなってしまうのだろうか。素晴らしいことだとは思いつつも、ちょっとだけ、変化を受け入れられない自分もいる。

仕事の生まれかた。【12月23日(木)】

たまたまタイムラインに流れてきたツイートのURLから、とあるコピーライターのWebサイトにたどり着いた。個人で働いている方で、これまでの制作実績や受賞歴、あるいは顧客からのメッセージなんかも載せられていたと思う。デザインもとてもきれいで、見やすいものだった。ふと気づけば、自分にもこんな立派なWebサイトがあればいいなあと思っている。

しかし、次の瞬間には、すっかり思い返していた。結論から言えば、今の僕には必ずしも必要なのではないのだ。その理由は、最近より大事にしている「仕事の生まれかた」にある。



僕はここ1年、地元の宮城県を中心とした地方の人々と関係性を築いている。およそ月に1回のペースで宮城の各地へ足を運び、ありがたいことにお仕事を振っていただく機会も増えてきた。そして彼らとの仕事は、僕がとんでもない才能を持った“スゴ腕ライター”だから生まれているわけではない。そもそもの“人間関係”が元となり、お仕事をいただけている。

とても立派なサイトから集客したとしたら、ビジネスで成果を求める人が集まってくるだろう。いや、それは当然フリーランスとして重要な話なのだけれど、僕としては“それ以上”の関係性を築けないのではないかと思う。お金と価値を交換して、それで終わり。たとえば、地域のあちこちに連れて行ってもらったり、いっしょに笑ってお酒を交わしたりできるような、そんな人間関係はないだろう。

もちろん、取捨選択だとは思う。極端な話、僕が出会っている地方の人たち全員から、お仕事を任されているわけではない。“人間関係”を深めたところでビジネスになるとは限らないから、それが不満ならば立派な実績や受賞歴を並べれば良いだろう。



まあ単純に、僕が地方の「仕事の生まれかた」が好きだという話だ。立派なWebサイトがない負け惜しみを言っているつもりはないのだけれど、なるたけ自分の価値観や感覚を信じていたいものである。

▼noteではエッセイを毎日更新中▼
note.com

【Sponsored Links】