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地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#49】声に乗らない感情。

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どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

今週も週刊エッセイにお付き合いください。

この1週間のビッグニュースは、修理に出していたMacBookが返ってきたことです。よかったよかった。これからもよろしく頼むぜ、相棒。

あと今回のリード曲ならぬリード記事は、人付き合いのお話。自分が信じられない人とムリに付き合う必要はないよなあと思います。

▼noteではエッセイを毎日更新中▼
note.com

1か月分の約3倍。【8月13日(金)】

先ほど、NHKで記録的豪雨のニュースが伝えられていた。僕が住む関東でもここ最近はずっと雨模様だが、それ以上に降っている中国・九州地方の状況が心配だ。

その雨量を伝えるべく、画面の右上には「1か月分の約3倍」というテロップが添えられていた。そして当然、アナウンサーもそうアナウンスする。

ただ、僕は「1か月分の約3倍…?」という初めて出くわす表現に戸惑っていた。なぜわざわざ、そんな遠回しな表現を使っているのだろうか。つまり1×3で、「3か月分」ではいけないのだろうか。ぐるぐると頭を回して考えてみる。

すると、思っていたよりもすぐに、答えは出た。季節によって雨量は異なるわけで、すなわち「8〜10月の3か月分」と「8月の1か月分×3」は、まったく意味が違うのだ。だから、「3か月分」ではいけない。今回は、災害級とも報道されている後者の表現を用いることで、稀少性あるいは危険性を伝えようとしていたのである。

最近とあるオンラインゲームを通じて、広島に知り合いができた。その方の生活が心配だ。なんだかちょっと肌寒くもなってきたし、雨が止んでくれること、またかんかん照りの晴れ間に会えることを切に願っている。

離れて深まった愛。【8月14日(土)】

きょう、修理に出していたMacBookをようやく受け取った。スケジュールの兼ね合いで、約2週間ぶりの“再会”。その間は心優しき知人がMacBook Proを貸してくれて、僕のアカウントを呼び起こして難なく仕事ができていた。本当に、彼女には感謝しかない。仕事に穴を開けずに済んだよ、どうもありがとう。

きのうの夜から、“再会”へ向けてソワソワしていた。しっかり直っているかの心配はなかったが、初期化されて戻ってくるのか否か、そしてどんなテンションで迎えようか。まあ、ここでは取るに足らない感情である。それでも結局あまり眠りにつけず、きょうはやや眠気を引きずったまま自宅を出た。早く自宅を出たかった。

銀座のApple Storeへ到着すると、本人確認と支払いを経て、あっという間に手続きが完了。さっそく近くのスタバで電源を入れてみると、データは修理に出す前の状態でしっかりと残っていた。もちろんPCの状態も異常なし。修理に出す原因となったUSB部分に加え、約1年前にレモンサワーをこぼしたキーボードも新品同様となっていた(そのぶん費用も嵩んだわけだが、背に腹はかえられぬ)。

ここまでまだ少ししか触っていないわけだが、やはりおよそ5年を共にしてきた自分の“相棒”は手に馴染む。いやもちろん、借りていたMacBook Proをわるく言うつもりは全くない。むしろ、この先もずっと崇め続けたい。それでもやっぱり、キーボードの配置やデバイスの薄さ・軽さなど全てを引っくるめて、より深い愛着が今ここにある。故障して修理に出して、初めて離れたからこその感覚だ。きょうは抱きしめて寝てやろうかとも思っている。

もっと書こう、エッセイを。【8月15日(日)】

きのう「ぼーのは小説書かないの?」と、また言ってもらった。それ以前は、3〜4年前。きのうとは別の人にもそう訊かれた。それぞれの真意は分からないけれども、少なくともぼくが“小説を書けそう”と思われているのではないだろうか。やたらポジティブに解釈してみる。

しかし、きのうもそれ以前も「あーそうっすね〜」「書かないっすね〜」みたいに返してしまった。非常につまらない返事である。だが、ぼくの心に対して、嘘のない返事でもある。書こうと思えば書けるような気がする。でも、正直あまり書こうと思えない自分がいるのだ。



ここ2日の話だが、noteのYouTubeをよく見ている。きょうは「心に響くエッセイの書き方」という、もう1年以上前のイベントを視聴してみた。

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エッセイを仕事(のひとつ)とされている方々が登壇されていて、そりゃ当然エッセイについての話が展開される。1時間半ほどの動画だが、興味のある方にはぜひ視聴していただきたい。

この登壇者の中で、ぼくは恥ずかしながらさえりさんしか存じ得なかった。が、イベント視聴を経てそれぞれのnoteを読みにいくと、とても面白さを感じられた。文章の巧みさだけでなく、自分自身の未熟さ、あるいはエッセイの可能性を見せつけられたような気がしている。そして今は、もっと良いエッセイを読んで、自分がもっと良いエッセイを書きたいと、そんな単純な想いが心に溢れているのだ。



あえて尖った表現をするならば、小説なんて書いている場合じゃない。ぼくは、日常のふとした瞬間を切り取るような、また新たな価値観を与えてくれるようなエッセイが好きだし、もっとその奥深さを学ばなくてはならない。自分自身の可能性を信じながら、そして疑いながら、気を改めて今後もnoteを書いていこうと思っている。

声に乗らない感情。【8月16日(月)】

「ぼーのくん(仮)もっと感情を表に出さなきゃダメよ〜」。MacBookの画面越しにそう声をかけられる。昨年の仙台市のキャリア系イベントで知り合った、10個上のフリーランスの女性。茶色のショートカットで、いつ会っても(といっても3度目だが)ニコニコかつハキハキしている。嘘みたいに明るい。肌も少し焼けていて、いかにもフィットネストレーナーといったところだ。杜の都が肌寒いとは友人のInstagramで知っていたが、彼女もすでにデニムジャケットを着こなしていた。

つい先週「元気?よかったら今度zoomでもどう?」なんてLINEをもらい、きょうは今年の正月ぶりに会話をした。そして、ふと話題がスヌーピーになったときのこと。あ、今までのLINEのやりとり(というかスタンプ)で、ぼくがスヌーピー好きであることが明らかになってしまっていた。彼女に「スヌーピーかわいいよね〜」と言われたぼくは「そうっすねー最高っすねー」と返す。すると「え、好きな気持ちが全然伝わらないんだけど(笑)」と言われてしまった。

発する声に感情が乗っからないのは、ぼくにとって通常営業だ。どうやら基本的に、キーもトーンも低めらしい。それでも、物心ついた時からずっとこの調子で生きてきたわけで、会社員として「もっと明るく喋りなさい」と注意されたときは随分と戸惑った。それと同時に、ぼくのキャラクターを受け入れてくれていた、学生時代の友人たちへの愛惜が込み上げてきた。

そしてまた、きょう。

「あーよく言われるんですよねー」と返しながらぼくは、正直この人と話すのは最後かもしれない、なんてことを感じていた。いや、どうだろう。ちょっと大げさだろうか。愛嬌や愛想が重要視される、そんな社会の仕組みは理解できる。でもその一方で、そんなものを必要としない世界があることもまた、ぼくがこれまで培ってきた知識のひとつである。

彼女がどこまで、ぼくに感情を求めていたのかは分からない。あえて反対のキャラクターになるよう指図することで、茶化していたのかもしれない。いやでも、たしかに「ダメよ〜」なんて言っていたから、本当にぼくの今後を案じてくれていたのかもしれない。その真意はどうあれ、とりあえず今は大丈夫だ。ノーセンキュー。そんなに感情を浴びたければ、どうか他をあたってください、すみません。ウチには置いてないんです、その、イイ感じの感情は。むしろないことがウチ、みたいなところもあるので。

本当にすみません、どうか他をあたっていただけると幸いです。

エッセイは、“描く”。【8月17日(火)】

ただ連なる文字を追っているだけなのに、頭の中に自然と鮮明な景色が浮かんでくる。外見と内面の輪郭を帯びた登場人物が、独りでに喋りだす。「わたし」のありきたりなようで鋭い視点が、手に取るように分かる。

noteの「#心に響くエッセイの書き方」という、もう1年以上前のイベントを視聴した。そこで登壇されていた、エッセイを仕事にされている方々の文章を読むと、まるでひとつの映像を見ているようだ。筆を取る本人たちも、心のスクリーンに映ったものをしっかり届ける、ということを心がけているようだった。自分以外のものをすぐにカテゴライズしようとするのはぼくのわるい癖だが、これはもはや小説ではないかと思えるほど、そのストーリーが淀みなく進んでいく。

恥ずかしながら、あるいは誇らしくも、自分の伸び代を感じられた。これまで1年半以上noteを毎日更新してきたけれど、なんだか淡々と日々を振り返っているだけで、“読みもの”として成立しているのかを考えたことがなかったな。ましてや、たとえば映像を思い浮かべて伝えるなんて。

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イベントに登壇された方々のnoteを読むと、エッセイは「書く」というより「描く」だと感じた。たしかに目の前の“紙とペン”と向き合うことも大切だが、もっと広い感性を持つこと。読んで字のごとく、描写すること。よし、これから改めて、ぼくはどんどんエッセイを“描いて”いこう。書くのはほどほどに、描いていくんだ。エッセイを。

想定の余白。【8月18日(水)】

入稿データの送付。メールの返信。来客の対応。いずれも、今朝のタスクリストにはなかったものである。そんな「想定外」で今日が埋まり、結局タスクリストのチェックボックスは、未だ空欄のものが少なくない。

今日で何度目だろう。これまでの人生で、もう膨大な量を重ねている。もっと自分は“ちゃんとしてる”と思っていた。こんなことなら、ちゃんと記録しておけばよかったな。逆にアニバーサリー的な何かを感じられたのかもしれない。

誠に勝手だけれども、「最初から想定が甘い」なんて言わないでほしい。まさにその通りだから。それを言われると、もう何も言えないから。

だから結局、ハナから「想定外」を想定しておくことが重要なのだろう。おそらく来たる想定外のために、たとえば時間的にも身体的にも“余白”をつくっておくこと。え、でもちょっと待って、想定外を想定って、それはもはや全て想定内ってことにならないか。なるよな、なるよな。想定外は、想定できないからこそ想定外なのであって…想定できてしまうものは、すなわち何だろう。

ひとまず明日から、余白をつくっておくことは心に決めました。



夢の話を共有すること。【8月19日(木)】

地元の仲間たちと、温泉旅行へ行った。男女10名ほどのグループ。みんな小学1年生からの義務教育をともにした、お互いに何もかもを知り尽くしているような関係性だ。ぼくの運転で旅館へ到着すると、だだっ広い和室で会席料理を食べている。学生時代からお調子者のアイツとソイツがはしゃぐ。好きだったあのコが笑う。その様子をぼくは、仲の良い男友達と眺めている。

という、夢を見た。目を覚ましたときはちょっとした疲れや呆れがあったものの、地元の彼らに再会できたような気がして嬉しさも感じられた。



自分の夢の話を他人にする人が、どうも苦手だった。ずっと身近な存在として母親がいて、家族で朝食を食べながら、彼女は父親に夢の話をする。「〇〇が〜〜してたの!」と嬉しそうに言う。父親は、テレビや新聞に注意を預けながら「ふーん」と言う。毎回(なんだこのやりとり…)と心の中で思っていたぼくは、どちらかと言うと“父親派”だった。夢なんだから、〇〇と〜〜が不思議な組み合わせになるのは想定内だし、リアクションが難しそうだ。きっとぼくは、つまらなさを隠しきれない。



しかし、今朝になって、夢を面白がる母親の気持ちも分かったような気がする。大切なのは夢の内容ではなく、自分が「夢を見た」という体験をしたことだった。楽しかったし懐かしかったし、でも現実に戻って寂しかったし。彼女はきっと、この感情の起伏を共有したかったのだろう。現にこうしてぼくは、今日を振り返った時に今朝の夢が頭に浮かび、noteに書いているのだ。

約20年越しに、ようやくあの時の母親の気持ちを理解できた。今のぼくなら、ちょうどいい塩梅で相槌を打てるような気がしている。


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