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地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#57】答えが1つとは限らないから。

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どうも、ぼーの改め大村(@nobo0630)です。

突然ですが、先週の『関ジャム』見ましたか?RADWIMPS特集として、ボーカルの野田洋次郎さんがインタビューに応じていました。

面白かったので、まだ見ていなくて興味があるという方はぜひTVerでご覧ください。たしかまだ見られたはずです🙄

ということで(?)、今週の『週刊エッセイ』もスタートです。ひとつよしなに。

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ゲストハウス架け橋にて。【11月26日(金)】

半日かけて気仙沼に着いて、今はゲストハウスに到着した。ふるさとワーキングホリデーで気仙沼に滞在している若者たちといっしょに、だいぶお酒を飲んだ。中には大学に在学中の人もいて、イマドキの学生のしゃんとした姿に圧倒されている。

生き方とか生きづらさとか、好きだったものとか、嘘みたいに共感できる人とも出会った。お互いに感動が止まらない。類は友を呼ぶとは、このようなことを言うのだろうか。

気仙沼を離れるのが、名残惜しい。明日の朝には、福島県郡山市の知り合いのもとへ向かっている予定だ。また大切な思い出ができてしまった。近いうちに、再び気仙沼を訪れることになるだろう。それまでは今日出会った仲間のFacebookを追い続けるのだろう。

急がば回れる選択肢。【11月27日(土)】

さっきまで500文字ほどのnoteを書いていたが、結局うまく話をまとめられず下書きに保存した。おそらく、そいつが陽の目を見ることはないだろう。下書きという名の、自分だけのメモを残してしまった。

毎日noteを書いていれば、文章がまとまらないなんてことは日常茶飯事だ。そこからどうまとめるかが腕の見せどころなのかもしれないが、僕は「腕を見せない」ってのもひとつの選択肢だと思っている。つまり、今回のようにその話題を断念するということだ。

自分のことを綴るエッセイ形式で文章がまとまらないのは、そもそもの思考がまとまっていないということである。徐々に書き進めていくことでまとまっていくパターンもあるし、あえてまとめずに疑問のまま着地させられもする。

ただ、自分でも掴みきれていない感覚や感情を他人にも見える場所に置くことは、そう簡単な話でもない気がしている。せっかくなら、記事を開いてくれた方に何らかの“お返し”がしたい。何かを感じたり考えたりするきっかけだけでも受け取ってほしい。まあそれこそ、これは個人的な感覚に基づく話になってしまうのだけれど。

「急がば回れ」なんて言葉もあるけれど、その道が険しいなら別のルートを選んだらいい。ちょっと後戻りしたっていい。むしろその選択を下せるということを、素晴らしいと思いたい。ちょっと大げさだったのかもしれないが、文章を書くことを通じて、自分の人生観も見直すことができた気がする。

カラオケと平等。【11月28日(日)】

きのうは福島県郡山市に住む友人のところへ遊びに行った。夜に合流して男4人で居酒屋でお酒を飲んで、それからスナックへ。店内にはすでに4人のお客さんがいて、カラオケを楽しんでいた。

座席に着き少し経つと、曲を入力する機会「デンモク」が僕らのもとにもやってくる。居酒屋の時点でめちゃくちゃ歌いたがっていた友人をはじめ、僕以外の3人が選曲。そして熱唱。さあ次はお前の番だと、僕の目の前にデンモクがやってきた。

しかし、今の僕にはカラオケにとても抵抗があった。人前で歌うほどの自信がないのだ。いや、もちろん聞いている人たちが“歌の上手さ”を求めていないことは分かっている。どちらかと言うと下手でも歌った方がよくて、歌わないことで“ノリの悪さ”みたいなものを提供する方がリスキーであるとも思う。ただ、そうは分かっていても、およそ5分もの間マイクを握る自分が受け入れられず、僕は「いやあ…」と苦笑いを浮かべていた。

見かねた友人たちは「ミスチル歌ってよ!」と酔っぱらいながら言う。お店の女の子は「えーミスチル好きなの?いっしょに歌える曲かな?」なんて戯ける。ちがう、僕はたしかにミスチルが好きだ。ただ、歌詞やメロディを味わうのが好きなのであって、誰だって自分が歌うとなったら話は変わらないだろうか。というかただただ、自分の歌唱スキルのなさを示したくないのである。



結局僕は「歌いたい人が歌えばいいと思うよ」という切り口に活路を見いだし、「みんな知ってた?今って令和だよ?」とダイバーシティリズム(?)全開の言い訳で、ちょっとした笑いとともに場を凌ぐことができた。ありがとう、令和よ。

でもほんとに半分本気で、たとえば歌いたい人だけが歌う、そんなシンプルな世の中に自分は在りたいと思う。たしかに平等も大切だけれども、時にそれは無駄になるし、極端に言えば凶器にもなってしまうのではなかろうか。今はとりあえず、歌わない僕を許してくれた友人たちに感謝したいと思う。

僕が感動するもの。【11月29日(月)】

つい先日、知り合いと宮城県気仙沼市を車で旅しているとき、感動についての話になった。海沿いで太平洋を眺めてからの帰り道、ふと「わたし自然を見ると感動するんだよね。大きな海を見ると自分のちっぽけさを感じて、波を見ると地球の鼓動を感じて。」と知り合いの女性が言う。僕は(ほう…)なんて心の中で思いながら、自分が抱く感動について考えていた。

どうやら僕はあまり、たとえば大自然を見て感動するタイプではないようだ。もちろん東京のコンクリートジャングルを離れて地方の海や山を目の当たりにすれば、その違いは感じるだろう。しかし、たとえば気仙沼で地球の鼓動を感じていた彼女ほど、心は動いていないと思う。感動とは、なんかこう、もっと自分が関心するような、ときめくような感覚であると思う。

その点、僕が感動するのは「人」に対するものがほとんどなのかもしれない。自分とちがう人生を歩んできた人、ちがう価値観や信念を抱いている人。あるいは、自分にはない技術を持ち得ている人。そういった人の姿を見たとき、自分の中で「おお〜!」と込み上げるものを感じる。

自分とちがう生き方や価値観なんてありふれているが、もっとも分かりやすい代表的な例は、アスリートだ。たとえばアメリカの舞台でホームランを放つ大谷翔平の姿を見ると、「うわ〜笑」となる。僕がよく見るヨーロッパのサッカーでは、華麗な連携でゴールを陥れるシーンを見ると「すげ〜笑」となる。またそれだけでなく、お酒を飲みながら誰かの話を聞いているだけでも「僕にはない感覚だ〜笑」となってしまう。僕にとって感動するおもなコンテンツは、「人」なのだ。

人が良いとか自然がわるいとか、そういう話をしたいわけではない。僕もおそらく、オーロラとか見ちゃったら感動するのだろう。いや、だからと言って気仙沼の海がものたりないというわけでもない。それぞれ感動するものがあって、そしてそれはそれで素晴らしいということだ。僕はその感覚を、尊重し合いたいということだ。

答えが1つとは限らないから。【11月30日(火)】

RADWIMPSの野田洋次郎がテレビ朝日系『関ジャム』に出演されていた。独占インタビューでの一字一句、あるいは一挙手一投足はとても新鮮であり、青春時代から彼らの音楽を聴いている僕にとって刺激的なものでもあった。

特に印象的だったのは、野田さんが「数字をモチーフとした歌詞を書けるのはなぜ?」というプロの音楽関係者から寄せられた質問に対して、「単純に一個は数学が好きだっていうのはあります」と答えたこと。その理由を以下のように続けた。

「その確からしさが好きというか、答えが1つっていう、とても分かりやすい明解なルールがあるので。自分みたいな不安定な存在、確かでない存在みたいなもの、がなんかこう、数学っていう確らしさに縋っていた部分にあった気がして。歌詞の中にも、それが表れやすいんだと思います」

翻って僕は、思えばずっと国語が好きだった。その理由は、答えが決して1つとは限らないからだ。同じ文章を読んだときに浮かぶ人それぞれの解釈、発想。記述式の問題は、きっとみんな違う言葉を記入しても、意味を捉えていればマルをもらえただろう。

僕は中学の国語の教師との“相性”がよくて、ぐんぐん言葉の面白さにのめり込んで今がある。書くことを、言葉を仕事にしている。大げさに言えば、割と自由な国語の世界観は、僕の人生観に繋がっているような気がしているのだ。

昔から僕は、答えが1つしかない数学に窮屈さみたいなものを感じていて、とにかく苦手だった。だから、野田さんようにも考えられるのかと感心してしまった。確からしさは自分の中で向き合い育てるしかないと思っていたが、そうか自分の外にも、拠り所として備えてもいいんだなとも思ったのだった。

覚悟というかなんというか。【12月1日(水)】

いよいよ12月になって年末年始が見えてきて、なんとなく新幹線のチケットを見てみました。上野から仙台へ帰省するチケットです。するとどうでしょう、もうすっかり埋まってるんですよね、早割チケットが。いや、普通料金なら全然乗れるんです。早割のチケットが、もうことごとくありません。なんということでしょう。

今年のお正月、僕はまあなんとか帰省したわけなんですが、いつも帰省してくる栃木の親戚は自粛していました。まあ、うちにはばーちゃんもいるので無理もありません。というか、賢明な判断だったと思います。ただ、ワクチンが出回り感染者数も減少傾向にあり、次の1月にその親戚は約2年ぶりの帰省を決めたようです。あ、その間のゴールデンウィークやお盆も帰っていなかったようですからね。

年末年始の人の往来をきっかけにまたコロナが広まるんじゃないか、なんてことはよく聞かれます。僕の周りの人たちですらそう言います。うん、僕個人としてもそんなような気がしていますね。というか、そう思っていた方が、のちのちちょっと楽になるような気がしていますね。覚悟というか、なんというか。

だから今年は、ヘンな話チャンスだと思って、帰省してもいいのかなと思っています。栃木の親戚に会うために帰ってもいいのかなと思います。極端な話、今回の帰省が今生の別れになる可能性もありますからね。可能性の話ですよ。これも覚悟というかなんというか、みたいなことでしょうか。



23:50に焦って書き出したわりには、いつの間にやら600文字を超えていました。今日はこんなところで勘弁してください。新幹線のチケット、もう少し眺めてみようかなと思います。

チームを頼る力。【12月2日(木)】

たとえば野球は、1人では成立しない。ピッチャーがいてキャッチーがいて、内野手がいて外野手がいて。攻撃する方だって、1番から9番までのバッターが必要だ。それぞれがポジションや打順を務めることで成り立つ。たとえば「いや、ウチは僕が投げて僕が守るんで」と、ピッチャーだけでフィールドを守り尽くそうとする人はいないだろう。

自ら田や畑を耕し完全なる自給自足の生活を送っているのならまだしも、多くの人は誰かと協力しながら仕事に取り組んでいる。そうして価値とお金を稼いで生きている。大抵それぞれには役割が与えられていて、それこそまるでスポーツのよう。互いの存在を感じ、信じながら“プレー”している。その連携が決まり良い成果を残せたときは、この上ない喜びや達成感を得られるだろう。

フリーな生き方が好きだった僕はまだ、その連携プレーの一端を上手く担えない。頭では分かっているつもりでも、気づけば自分ひとりでフィールドを守り尽くそうとしている。当然、守り切れるわけがないのに。

これから地方での活動やプロジェクトを進めていきたい僕は、このチームプレーを磨く必要性を感じている。つまり、しっかり誰かを「頼ること」。自分ができないことを認めて伝えて、はたまたできることを務めあげること。自分のポジションを感じて考えて、生きていたいと思っている。


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