どうも、ぼーの(@nobo0630)です。
あっという間に金曜日ということで、恒例にしている「週刊エッセイ」です。
今週もよろしくお願いします。
- 存在をジャンルに。【8月28日(金)】
- 初対面を増やすべし。【8月29日(土)】
- 噂の退職代行。【8月30日(日)】
- 「コピーっぽさ」と仲良くしたい。【8月31日(月)】
- セミナーでの失望から。【9月1日(火)】
- 自分をどう見せるか。【9月2日(水)】
- ナナメに、まっすぐ。【9月3日(木)】
存在をジャンルに。【8月28日(金)】
ジャンルを作ってしまう人がいる。
先週の『A-Stadio+』のゲストは、俳優の菅田将暉。演技のみならず歌手やファッションスター、またラジオパーソナリティとしても活躍する彼を、MCの笑福亭鶴瓶さんは番組の最後に「これまでにない存在。菅田将暉というジャンルだ」と称した。
ブラジル代表FWネイマール。普段サッカーに興味がないような人にも存在が知られるスター選手だが、つい先日、日本のとある一流実況者がヨーロッパの大会を前に「ネイマールという存在がジャンルだ」と語った。
奇しくも僕は先週、ジャンルを作ってしまう2大スターの話を目の当たりにしたわけである。
僕は、彼らのような既存のジャンルに収まらない存在になりたいのだなあと思った。名刺にはコピーライターという肩書きを添えているが、従来のそれを気にしてはいられない。というか、既存のジャンルで勝負したら当然、負ける。いや、勝負にもならない。僕は大卒で社会人6年目の代だ。たとえば、大手広告会社に6年勤めている人とは、きっと会話もままならないだろう。
菅田将暉やネイマールのような“規模”になるのは不可能だと思う。でも、彼らのような生き方は、まだ不可能じゃないと思っている。
既存のジャンルに囚われないことを胸に、今後も活動を続けていきたい。
初対面を増やすべし。【8月29日(土)】
今日、久しぶりにプライベートで「初対面」があった(まあ、Tinderで知り合った人と電話をしたってだけなのだが)。そこでLINEの画像から「ミスチル好きなんですか?」と会話が始まり、自分にとって当たり前になっている「ミスチル好き」と向き合うことができた。
ミスチルを好きな理由や、好きになったきっかけ、好きな曲などあらゆる話をすることで、自分自身にも改めて発見があった。
ミスチルの『fanfare』に、このような一節がある。
ひょっとしたらあなたの瞳にいつか出会った
本当の僕が迷い込んでやしないかなあって探してみる
他人の瞳に、自分が映る。他人と向き合うことは、自分と向き合うことでもあるのである。
今回Tinderを通じて、出会いの重要性を確認することができた。今後、より初対面を増やしていきたいと思っている。マッチングアプリ、自分が思っていたより面白いかもしれない。
噂の退職代行。【8月30日(日)】
きのう、久しぶりに地元のLINEグループの電話に参加してみた。
みんな子どもが生まれていたりプロポーズを待っていたり、6年目を迎えた会社内での異動を希望していたり。それぞれの人生に圧倒されながらも、わりと楽しい時間を過ごした。お金やメリットを気にしない生まれながらのコミュニティは、個人的に歳を重ねるごとに特別感を増しているような気がする。
きのうの会話でとくに興味深かったのが「退職代行」の話。上司と反りが合わないという理由があり利用した友だちがいて、噂では聞いていたけど面白い話だった。
まずは代行会社にLINEで問合せ、退職を希望する日程を送る。そしてその日を迎えたら、もう本人は会社に行かなくていいのだという。文字どおり代行会社が代わりに退職の旨を伝え、その後、荷物の整理や各種手続きは代行会社が仲介してくれるとのこと。さすがに、友だちのもとにへ退職先から直接の連絡もあったそうだが「かなり便利だった」と彼は言っていた。
新卒で入社した会社を退職している僕にとっては、とても興味深かった。退職の言いづらさを知っているからだ。人間関係に不満を抱いているなら、なおさら言いづらいことだろう。僕はそんな会社の“足かせ”に感じられるところに抵抗があったのだが、退職代行があるならば、今後また就職というのも視野に入れてもいいのかもしれない。
久しぶりに大笑いもできたし、きのうは良いLINE電話だった。今後、より会話をしようと思う。
「コピーっぽさ」と仲良くしたい。【8月31日(月)】
同世代のカメラマンのYouTubeチャンネルを見ていると、「スマートフォンでお洒落に撮影するコツ」や「プロも使う構図」などという動画が配信されている。誰もがスマホで撮影する時代。カンタンに「プロの写真っぽさ」を演出できる、とても理にかなった動画である。ぼくも、見た。
では僕はこれをコピーライターとして、コピーに転用できないだろうかと考える。誰もがSNSで文字を扱う時代。理にかなっていないわけではないだろう。
しかしこれまで何度も、自然と「コピーっぽさ」に抵抗を抱く自分があらわれた。気づけば「コピーっぽい」は、自分の中で“揶揄的”な意味を持つワードとなっていたのだ。つまり本質を捉えきれておらず、ウワベだけを掠めているような、いわば小手先のような。そんなコピーは書くまいとするいつもの思いが、僕のアタマを堅くしていた。
そしてここ最近、その「コピーっぽさ」の先に、やや大げさに言えば新たな世界が拓けるのではないかと考えている。もう真っすぐ「コピーっぽさ」を「コピーっぽさ」として捉えて、大衆的なものにするイメージである。会社に所属していない20代として、僕が向き合える場所ではないかと感じているのだ。
ってことでまずは僕自身が「コピーっぽさ」と仲良くしなきゃなあ。
セミナーでの失望から。【9月1日(火)】
今日は夜から、とあるクリエイティブディレクター(CD)のセミナーを受けました。2週間ほど前に無料で申し込めたもので、zoomの“ウェビナー(ウェブ+セミナーですよね)”で受講しました。
内容としては、おもに広告のクリエイティブに関するもので、時間は1時間。…だったんですが、僕は10分ほど見たら、zoomを退出してしまいました。
まあ当然、CDの経験や実績を通じて話は進んでいくわけです。もちろん想像はできていましたが、「結局じぶんが手を動かすしかないよな」とか「これってひけらかされてんのかな」とか、余計なことばっかり考えていました。
そして僕はパソコンの画面を切り替えてから、たった1時間も我慢できなくなっていた自分に失望しました。少なくとも、過去の僕は関心を抱いて申し込んだんですけどね。カレンダーのアプリにも、しっかりと記録していましたし。
好きは絶対。得意は相対。
— ぼーの / コピーライター (@nobo0630) 2020年9月1日
至極あたりまえのことなんですが、ふとこんなことを思いました。
好きなことで生きるのは、絶対的に生きるのは、やっぱり厳しいものなのでしょうか。偉い人の話を黙って聞くことができない、いわば相対性のない自分には、より厳しいものになってしまうのでしょうか。
僕はこの問題に、人生をかけて挑みたいと思っています。というか、挑んでいます。納得するまでがんばりたいです。
自分をどう見せるか。【9月2日(水)】
京都大学に在学中で、YouTuberやコピーライターとしても活躍されている「わっきゃい」さんが『新R25』のYouTubeで取材を受けていた。
豪華3本立てでどれも面白かったのだが、僕が印象的だったのは「見せ方の話」である。
わっきゃいさんと僕を比べると、彼は“自分をどう見せるか”をかなり意識されているように思えた。上記の1本目の動画では、ゴールキーパーとして参加したYouTuberのフットサル大会で、真正面のボールをわざわざ派手にセーブし、MVPを獲得したエピソードが語られている。
僕は会社員時代、“自分をどう見せるか”に全然うまく取り組めなかった(いや今もそうか)。むしろ、その“やってる感”が重要視される風潮が、とても苦手だった。
しかし、わっきゃいさんはその風潮さえも楽しんでいるように思えた。3本目の動画では、就職活動にワクワクしていたからね。僕は「なんで他人に評価してもらわなくちゃいけないんだよ」とか思ってた。今もちょっと思ってるかも。やばいね。
まあとにかく今回は、わっきゃいさんの話を聞いて、もっと真剣に“自分の見せ方”と向き合わないといけないなあと思った。そしてそのためには、自分と世の中の現状を正確に把握すること。その上に、仮説や実験は成り立つのだと思う。
せっかくの未開拓の場所、たのしもう。いや、たのしめるかなあ。
ナナメに、まっすぐ。【9月3日(木)】
今まで僕は、「斜に構えること」に自らのアイデンティティを感じてきた。
多くの人が見ている目線から、あえてズレて物ごとを見る。マジョリティを尻目に、マイノリティをめざす。友人との他愛もない会話でも独特の視点を発揮し「あ、そっち?笑」と言われることが嬉しかった。それでこそ、自分であると感じていた。
しかし最近、そんなアイデンティティが崩れつつある。
結局ナナメではなく、物ごとと“まっすぐ”向き合える人間のほうが優れているのではないかと、そう感じ始めているのだ。それは社会や恋愛、友人など、他人と時間を共にする万物に対して言えるような気がしている。まっすぐの方が「分かりやすい」し、他人に対して思いやりがあるからだ。なんとなく強さも感じる。するときっと人として、あらゆる面で重宝されるのである。
ただ僕は、もう20何年も連れ添ってきたナナメを、あっさりと手放せるわけでもない。人間はそう簡単に変われない、なんて大げさなことを言うつもりはない。ナナメに愛着が湧いているのだ。というか、すっかり癖になっている。身体に染みついている。
そんな感じで最近は、“ナナメとまっすぐのバランス”みたいなことを考えている。すると今日、ふと「ナナメに対してまっすぐ」というのはどうだろう、なんてことを思いついた。いや、もう無茶苦茶なのは分かっている。相変わらずナナメなのだから。
しかし、ただナナメで居るのではなく、ナナメとしっかり向き合うというイメージだ。より一層の自覚を持ち、ナナメをナナメとして捉える。どこで“まっすぐ”を発揮しているんだともう1人の僕がツッコむのだが、まっすぐを取り入れながらナナメを保つ、画期的なアイデアではないかと高揚しているのである。
まあ、他人にとっては相変わらず、ただのナナメなんだけどね。。
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