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地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#24】「宮城まちおこしライター」になってみます。

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どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

今回のタイトルに選んだエッセイは、僕の今後の生き方についての話です。

まあ肩書きなんてのはアクセサリーみたいなもので、決して本質ではないと僕は思っています。

ただ他人からしたら、分かりやすさはあるだろうね。みたいな

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発信は本質じゃない。【1月22日(金)】


昨年の秋ごろから、東京を離れての「地方での活動」を見据え始めてみた。まずは仕事や人脈を作るべく、今なおオンラインイベントや現地ツアーへ参加しまくっている。基本的にはライティングを軸に、情報発信の分野で力になれないかと考えている。いや正しくは、そう考えていた。

たった3〜4ヶ月ほどではあるが、これまで僕はその土地を見て、住人と話して、さまざまなことを感じてきた。そこで改めて分かったのは、決して「発信は本質ではない」ということだ。



地方の人の多くはつくづく「(このSNS時代で)うちは発信が弱くてねぇ」と嘆く。ありがたいことに、仲良くなった方から「ぼーのくん(仮)も力になってよ」とも言ってくれる。しかし、まあ当たり前の話にも感じられるだろうが、ただその地方の現状を発信するだけでは、話題性を生むことは難しいと感じている。

つまり、そもそもその土地に何があって、どんなものが“価値”として提供できそうなのかを考えなければならない。もし魅力的なものがなければ、新しく創っていく必要だってある。情報発信は、そういった“面白い事実”があって初めて成り立つものであると感じているのだ。僕は今、もうひしひしと、まざまざと、そんな思いに苛まれている。



コロナ禍によって場所の制限がなくなった人が増え、今は都会から地方への移住が話題となっている。そうなってしまっては、なおさら地方は“差別化
”を図らなければならないだろう。より魅力的な、“面白い事実”が必要になってくる。ひょっとしたら情報発信の仕方で差別化できるかもしれないが、それは僕にとって本質的ではないようにも感じる。



昨日はふと、こんなことを思った。これから地方へ、どんな“価値”を提供できるのだろうか。最近の僕はちゃんと高揚しながらも、それなりの緊張感に包まれつつある。


「宮城まちおこしライター」になってみます。【1月23日(土)】

どうも、こんばんは。Facebookからお越しの方、いらっしゃいませ。大村です。今日も張り切って書いてまいります。いきなりで恐縮ですし「いや知らねぇよ」って思われちゃうかもしれませんが、先ほどTwitterおよびnoteに新たな肩書きを加えてみました。


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どうも「宮城まちおこしライター」です。変えてみたきっかけは、きのう公開された竹村俊助さんのnote。彼はTwitterをきっかけに知った「SNS時代を代表する編集者さん(だと思ってます)」なのですが、このように記していました。


ぜんぜん見知らぬ人に「経営論」を語られたり「仕事術」を語られたらどうでしょうか?「おなかすいたなあ」「会社だるいわあ」と言われたらどうでしょうか? おそらくスルーすると思います。
よっぽどおもしろいことをやっていたり、すごいネタを持っていたら別ですが、まずはあいさつと自己紹介から入るのが普通でしょう。
だからまず「自分がどういう人なのか」「どういう立場にいる人間なのか」を示したほうがいいように思うんです。
そのためにはプロフィールが大切なのは言うまでもありません。
(「がんばって書いてるのに読まれない!」という人は、これが足りない より)

よっぽどの存在でないかぎり「誰が言うか」を確立しないと、何を言おうが話を聞いてもらえないですよね。至極当たり前のことのように感じますが、僕は全然できていませんでした。「コピーライター/ライター」という、いわば“ありきたり”な肩書きに逃げていたわけです。



今回の「宮城まちおこしライター」という言葉には、宮城(を軸とした地方)でまちおこしに取り組みたいという決意を込めました。自分の立場を示すことで少しでも影響力を与えられたらと思いますし、あるいは同じような想いの人と繋がりたいとも思っています。

昨年から、地方自治体が主催するオンラインイベントや現地ツアーに多数参加しているのですが、おもにコミュニケーションの部分をもっと改善できるのではないかと考えるようになりました。つまり、いま僕は“まちおこし”に可能性を感じているのです。



今後の実務的には、これまで担ってきた「書く」に限らず、「企てる」や「話す」など、幅広い分野に携わりたいと思っています(すでにいくつかお仕事をいただいていたりします。ありがたい話です)。あと「宮城」を「東北」にしようかなとも思ったんですが、あえてエリアを狭めて、キャラクターを研いでみました。東北楽天ゴールデンイーグルスという球団名に決めた楽天・三木谷社長とは逆をいく選択です。

…ってまあ、それはいいか。



ひとまず、SNS上だけでの変化ではありますが「宮城まちおこしライター」として生きてみます。最近の自分は気づけばまちおこしのことばかりを考えていまして、やっと腹を括れたというか、やっとしっくりくる肩書きになれたなって感じです。時間が経ってしっくり来なくなれば、また変更すればいいだけだと思いますしね、しなやかに生きていきましょう。

ということで改めて、どうぞよろしくお願いいたします。

肩書きは、自分のものじゃない。【1月24日(日)】

きのう「宮城まちおこしライター」を名乗り出してから、今は2日目の夜を迎えております。といっても特段ぼくの生活に変化はなく、仕事がたまった日曜日をいけしゃあしゃあと過ごしてやりました。あ、いけしゃあしゃあという言葉を使ってみたい気持ち8割で書いてしまいました。すみません。

そんなこんなでふと、今回の記事のタイトルのようなことを実感したわけですね。あー肩書きって自分のものじゃないんだ、自分以外の誰かのための言葉なんだって。まあそりゃ多少は、肩書き(というか身分)によって精神状態が改まることもあるでしょう。「巨人の4番」とかさ。でも結局、ぼくはぼくでしかないとも思います。つまり誰かの「ねぇねぇキミは何をやってる人なんだい?」の解決を手助けしてくれるのが、肩書きだったってわけですね。

そう考えると、なんだかやたらカタカナやアルファベットであふれた肩書きを連ねまくってる人が、急に愛らしく思えてきました。彼らは決して、自分が気持ちよくなるためにいろいろ名乗っていたわけではないのですね。肩書きの長さや量は、「思いやり」や「愛」の量に比例しているのかもしれません。これは大発見だ。

ということで今後は、肩書きとも良い距離感を保っていきたいと思います。まあ意識しすぎず意識させすぎず、シンプルに機能させられればよいのかなと。あとはしっかり、ひとりの人間として付き合ってもらえるように。良い意味で肩書きをアクセサリー感覚として、これからお付き合いしていきたいなと思ってますね。

自分の価値を示さないと。【1月25日(月)】

昨年に宮城県を中心とした「地方での活動」を見据えてから、“お試し移住ツアー”を通じて各自治体の移住・定住担当者と知り合いになることができた。発信活動に課題を抱える彼らは、僕のライターという特性に可能性を感じてくれている。そして僕としても、自治体の担当者から地域へ入っていける。いわばWin-Winの関係性があると言える。

2020年の10月に知り合ってから、Messengerのグループチャットで頻繁に連絡を取り合っている。今年の正月に僕が宮城へ帰省した際には『東京ばな奈』を手土産に、直接あいさつにも廻った。来月には、県主催の「移住フェア」にもホストとして、いっしょにイベントを作っていける立場となった。一歩一歩確実に、その関係性は深まっていると思う。

ただ、もうそろそろ「自分を認知してもらうフェーズ」は終わらせないといけないとも思っている。お互いのキャラクターも分かり合ってきて、大変ありがたいことに宮城での仕事も振ってもらえるようになった。だからこれからは、「価値を示すフェーズ」だ。自分もより現場へ身を乗り出して、本格的に結果を出していかなければならないのだ。

とはいえ、悲壮感や焦燥感ばかりに苛まれているわけではない。これから自分は何ができるのか、何をすべきかをワクワクしながら考えられている。その自分を感じて、やはり僕は地方で生きるべきなのではないかと確かめられているのである。

「赤の他人」に価値を持たせるには。【1月26日(火)】

どうも、地元の宮城を中心とした「地方での活動」を見据えまくっているぼーのです。今は東京都足立区に住んでいます。最寄駅は、千代田線の最北端「北綾瀬」です。

昨年の10月から本格的に、今の宮城で生きる人と交流しています。それは自治体の移住担当者がアテンドしてくれた現地ツアーであったり、オンラインのイベントであったり。東北には震災ボランティアをきっかけに県外から移り住んだ人も多くて、本当に面白い人が生きています。あ、この面白いってのは「独特の人生を歩んでるね〜」とか「ロックだね〜」みたいな、生き方への面白さです。僕はそんな、“変態”が好きなのです。笑

このSNS時代において、地方の皆さんは「うちには発信力がないよ〜」と、しばしば嘆いておられます。僕もライターとして、あるいはSNS好きとして、どうにかして地元の力になりたいと常々考えています。ただ、コロナ禍によってワーケーションや首都圏からの移住も一般的になりつつある今、その地方の差別化も簡単ではないとも感じています。

そこで僕は、宮城で生きる人の「ストーリー」をコンテンツにできないかと考えているのですが、ここで壁が現れました。たしかにSNSでコンテンツにできたとしても、誰かにとっての“価値”にするにはどうしたらいいのだろうと悩んでいるのです。僕が直接お会いして魅力を感じてコンテンツにした人だとしても、それを受け取る人にとっては「赤の他人」です。そんな他人に価値を持たせる仕組みが、さらに必要なのではないかと考えています。

今回のnoteのタイトルを見て、いわゆる“答え”を求めて読みにきていた方がいたらすみません。正直、僕が欲しいくらいです。とはいえ、ここに吐き出せたことも含めて、これから何ができるかポジティブに思考と行動を重ねていきたいとも思えています。


もし魔法使いになったら、僕は魔法を使わなくなると思う。【1月27日(水)】

自分の願いをなんでも叶えられる「魔法」が使えるようになったら。な〜んてことを、誰もが一度は考えたことがあるのではないだろうか。少なくとも、僕はある。

魔法の力で欲しいものを全部そろえてしまって、もう欲望のままに生きてやろうと思う。もし魔法使いになったら、僕はしばらくそんな魔法の力を堪能するだろう。きっと依存までしてしまうだろう。全てを手に入れて、一時的に怖いもの知らずな男となるだろう。

しかし、それは所詮”一時的な”ものなのだ。僕が満たされるのは魔法のおかげであり、決して自分の力ではない。だから、まあこれはどうしても予想でしかないのだが、僕が魔法使いになったら、魔法の力に圧倒され、自分の力がちっぽけに思えてしまうだろう。自分が情けなくなってしまうだろう。

だから、もし魔法使いになったら、僕は魔法を使わなくなると思うのである。僕は、あくまで僕の力で願いを叶えたい。ちゃんと真っ当に、自分を未熟だと思いたい。いわば魔法のないこの世界を、ありがたく思うのである。

「かたち」と「価値」。【1月28日(木)】

ぼくは今、地元である宮城県を中心とした「地方での活動」を見据えている。まずは昨年の10月あたりから地方のイベントに参加して人脈を広げつつ、自分には何ができるのか、あるいは何をすべきなのかを考えているのだが、ふと以下のようなことを思った。

たとえば、僕が独りでにクルマを作り上げるのは自由かもしれない。しかし、そこに他人が乗って、彼らが快適な生活を続けられるのかは別の話である。まあ何というか、自己満足で「かたち」にすることと、誰かにとっての「価値」は全然ちがうのである。



自分のライターという特性を地方へ活かすならば、土地や人をテーマとしたコンテンツを作り、“発信活動”に勤しむことが良いような気がしていた。宮城の方々も「ぜひ発信を手伝って欲しい!」と、僕へ好意的な態度も見せてくれている。たしかにこれまでの経験を活かせば、コンテンツを作ることはそう難しい話ではないだろう。

しかし、繰り返しになってしまうが、それが「価値」になるかはまた別の話になってしまう。なんだか地方の方々は「かたち」になること自体に「価値」を感じているのかもしれないが、果たしてそれで良いものかと、腕を組み頭を傾げる自分がいるのだ。やはりどうせならば、多くの人にとって役に立つクルマを生み出すべきではないかと思っているのである。



ただ、宮城とこれからどう関わっていくべきかを、ワクワクしながら考えられている。そこはあくまでポジティブに捉えていきたいとも感じている。


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