0→1(ゼロカライチ)

地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

【Sponsored Links】

【週刊エッセイ#43】「おもしろ」を分かち合えること。

f:id:nobo0630:20210714024630j:plain


どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

最近はゲリラ豪雨が多くて困っちゃいますよね。「またゲリラかよ〜」って毎年思ってますわ。

そんなこんなで(?)今回も週刊エッセイです。よろしくお願いします。

▼noteではエッセイを毎日更新中▼
note.com

選び放題の環境で。【7月2日(金)】

子どもの頃の自分の環境は「運」の要素を多く含んでいると思います。どの時代にどう生まれて、誰と生きていくかというようなこと。そしてその生活環境は、自分の人格に多大な影響を及ぼします。その点、僕は自分の両親や親戚、出会ってくれた友人や教師に感謝しなければなりません。

しかし大人になっていわゆる自立してからは、自分の環境を選ぶことができます。大いに選べる。選び放題。もちろんいくつかの“どうしようもない制限”はあれど、今の時代なら大抵のことは叶います。たとえばほら、自分の性別を変えちゃうことだってできますからね。



自分が好きな言葉を紡ぐコピーライターやライター、ミュージシャンばかりを身の回りに置いていると、大変おこがましい話ではありますが、感覚が吸い寄せられているような気になります。彼らのエッセンスを頂戴しているような、そんな気分です。実際にそれが効果的に顕在化されているかは、知りませんけれども。



ふと、今の自分の環境に責任を持たなければならないなあと思いました。きょうのいつ、なぜこんなことを感じたのかは覚えていませんが、リマインダーのメモを見返したらプロットが打ってあったわけです。でも、こう思っているのはほんとです。子どもの頃の環境は仕方なくても、今の環境に仕方ないことはないのではないかと思います。これは今後の自戒でもあります。

自分の人生に責任を持っている人。【7月3日(土)】

「好きなタイプってどんなひと?」。こと恋愛においてよく耳にする質問のひとつだ。これを読んでくれているあなたも、きっと一度は考えさせられたことがあるのではないだろうか。あるいは、誰かに考えさせたことがあるのではないだろうか。

最近ふと、個人的なベストアンサーが生まれた。「自分の人生に責任を持っている人」だ。かわいいだとか美人だとか、細身だとかぽっちゃりだとか、そういう類いの答えを期待している人には申し訳ない。ただ僕は、しばらくこの回答を使い回すことになるのだと思う。



ときに人は、人生の暗転や状況の不遇さを、自分以外の何かのせいにしたくなる。もちろん本当に自分だけではどうしようもないこともあって、ただただ嘆きたくなるときも、ある。「なんだかツイてないな」「何か面白いことないかな」「誰か良い人いないかな」などというように。

しかしやはり基本的に、人生の出来の責任は、その人自身にあるのだと思う。会社の上司や同僚に恵まれていないのなら、異動や転職をすべきだ。すてきな異性に出会えないのならば、もっとさまざまなコミュニティに顔を出すべきだ。あるいは、まずは自分がすてきになるべきだ。どれだけ不運なことをアピールされたとて、僕はどうしても、こう考えてしまう。



だから、自分の人生にしっかり責任を持ち、自分を充実させている人が好きだ。誰かのせいにすることなく、誰かの目を気にしすぎることなく、しっかりと自分の道を歩んでいる人。そのキラキラとした表情や存在を感じていると、僕もポジティブな気分になってくる。そして僕自身も、そのキラキラを分け与えられる人間でありたいと願う。

そんな自戒も込めて、僕は「自分の人生に責任を持っている人」と答えるのである。さて、あなたにとって好きなタイプとは、どんな人間だろうか。

ちょっと喧騒忘れてくるわ。【7月4日(日)】

深夜の街を意味もなく歩く。オフィスと化した自宅を抜け、行先は、強いて言えば近所のコンビニ。雨が降ってりゃ傘をさし、ちょっと寒けりゃジャージを羽織る。持ちものはiPhoneと家のカギ。一応、ちゃんとマスクも着ける。たまに電子タバコをふかしたりもする。

よくテレビや雑誌で「都会の喧騒を忘れて田舎で暮らしましょう」といった謳い文句を目にする。耳にする。ただ、正直これまで個人的にピンとこない表現だった。自分が田舎出身で大自然に対してスペシャリティを感じてこなかったからか、また言ってらあ、などとむしろ冷めた視線を送っていたと思う。

しかし今、夜の街を歩く自分は、まさしく喧騒を忘れようとしていたことに気がついた。MacBookとWi-Fi環境から離れ、静かに自分と向き合おうとしているような。いやいややっぱり、そんな大それた話ではない。ただただとぼとぼと歩き、のうのうとした時間を過ごしたかったのだ。

ということで、今このnoteを投稿したら、またコンビニまで散歩しようと思う。ちゃっかり深夜の作業を共にする夜食も買ってこようかな、なんて。ちょっと喧騒、忘れてくる。

いつかのための覚悟。【7月5日(月)】

僕より先にnoteの毎日更新をされていた方が、つい先日「寝落ち」してしまい、連続更新が約2年で途切れたという。その方は自分の意思でケリをつけられなかったことを悔やんでいた。更新をせずに深夜に目を覚ましたその時、慌てふためき涙を流したそうだ。

その方を見習うようなかたちで連続更新をしている僕は、その気持ちをとてもよく理解できた。恐怖すら覚えるほど、容易に想像できた。今、僕は連続更新して550日を迎えている。この数字がいつか途切れてしまうのかと思うと、今にも泣いてしまいそうだ。

これまで僕も、寝落ちのピンチに晒されたことが何度かあった。どうしても寝ないと生きていけんという夜、起きたら23時前だった。「ほほう、自分やるじゃん」「すっかり“note体質”になってんじゃん」なんて呑気なことを思いながらも、相当危うい状況だったと思う。

そんな経験もあるから、僕も一応覚悟はしているつもりだ。いつかこの連続更新が途切れる時が来ることを。でもそうだなあ、僕はおそらく、途切れてしまったらひとまず休止するんだと思う。あまりのショックに、不貞腐れてしまうだろう。あ、じゃあその時はそうだ、美味しいお寿司でも食べよう。自分へのご褒美じゃないけれども、ある意味“記念”にしてあげよう。

よしいいぞ、そう考えたら、なんだか更新が途切れることも怖くなくなってきた。お寿司、好きなんだよね僕。ビールもいいけど、日本酒でたらふくいただいちゃおう。

地域を見つめる解像度。【7月6日(火)】

いつもお世話になっているこのnoteさん主催のイベント「地方移住クリエイターとして、暮らす。」を見ました。

ゲストは、静岡県南伊豆町で暮らすイッテツさんと、神奈川県真鶴町で暮らす川口瞬さん。クリエイターとしておもに地域の発信を担うおふたりのお話は、昨年の秋から地方での活動に興味を湧かせまくっている僕にとって、とてつもなく有意義なものとなりました(YouTubeにアーカイブも残っているので未視聴の方はぜひ)。



とくに印象的だったのは、地域を映す「解像度」という言葉。「移住者としての目線がコンテンツ制作に活かされることはありますか?」という質問(だったと思う)に対して、川口さんがおっしゃっていたことです。

重要なのは、そのまちの“外の人間”か“中の人間”かということではなく、その人自身の“眼”なのだと、僕はそう受け取りました。結局その地域のどこを見て、なにを感じて、どう伝えていくか。それは地方出身だろうが都会出身だろうが、あまり関係ないようです。また高い解像度を備えた人は、たとえば地方だけでなく都会に対しても、きっと面白いものを見つけられる、というようなお話でした。

これまで多くの地方イベントに参加してきた(つもりの)僕ですが、初めて出会った視点に、ワクワクおよびニヤニヤしながらメモを打ち込んでいたと思います。今後、この解像度という言葉を意識して地方をまた巡るつもりです。



また、正直地域のメディアづくりに限界を感じていましたが、そんなこともないのかなと思い返すこともできました。何というか、結局メディアに載せるそもそものコンテンツがないじゃないか、なんて考えていたんです。とくに僕の地元、宮城県美里町に関しては。だから新たなイベントとか事業を立ち上げるところからスタートしないといけない、って考えていたんですけれども。

もうすこし頭を使ってみようと思います。コピーライター/ライターとして、地元でできることを見つけたいです。



とにかく、とても楽しいLive配信でした。また近いうちに見返して、新たに感じたことがあればここに記しておこうと思います。noteさん、ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


「おもしろ」を分かち合えること。【7月7日(水)】

とあるトークバラエティ番組で、とある芸人が「お前それどうツッコんでもらうつもりやねん?ってボケする人おるよな(笑)」と、またとある芸人と話していた。この「ツッコんでもらうつもり」という言葉というか表現に対して、妙に納得する自分がいた。

僕は芸人でも何でもないんだけれども、ただのお笑い好きのおふざけ好きとして、普段から自然とボケやツッコミなどの役割を意識してしまう。ときに自分がボケることもあって、そのときはそれこそ「逆に」とか「あえて」を意識して、一丁前に“ツッコミしろ”みたいなものを作ろうとしている。一応、ツッコんでもらう想定をした言動をするのである。

そして誰かに、僕の思惑通りにツッコんでもらえたとき、とても嬉しい気持ちになる。ボケの面白さの度合いはさておき、比較的唐突にやってくる「おもしろ」を分かち合えたことに、幸せを感じるのだ。逆にそのやりとりが空回りしてしまうと、つまり僕がボケたのにツッコんでもらえないと、ひっそり寂しさを感じてしまう。まあ、変に仕掛けて勝手に落ち込む僕がいけないんだけれども。

それでもやっぱり、どちらかと言えば僕はツッコんでくれる人といっしょにいたい。逆に僕もツッコみたい。すなわちボケられたい。これは誰がよいとかわるいとかそういう話ではないとして、相性を測るひとつのモノサシとして、そっと心にしまっておこうと思う。

青春時代の大投手。【7月8日(木)】

松坂大輔が今シーズン限りでの引退を発表した。

彼がドラフト1位で横浜高校から西武ライオンズに入団した1999年、僕は小学2年生だった。ちょうど野球を始めたばかりのあの頃、パワプロやプロスピなどといった野球ゲームでよくお世話になった。MAX155キロのストレートと高速スライダーで相手バッターを打ち取る快感を、今でも憶えている。

でもそういえば、彼がライオンズのユニフォームで実際に投げている記憶が、あまりない。今ほどテレビをチェックしていなかったし、ネットもなかった時代だ。逆に今、日本ハムの片岡篤史に空振りを強いたインハイへのストレートや、オリックスのイチローを3三振に抑えたシーンをよく見る。だから僕が小さかった頃、彼はある意味ゲーム内のキャラクターのようだった。

それでも、レッドソックスに移籍してからの活躍や、WBCで世界一に輝いた彼の姿はしっかりと憶えている。当時の僕はもう中学生になっていて、松坂のワインドアップ“だけ”を真似する野球部のチームメイトもいたっけ(やばい、アレ久しぶりに見たくなってきた笑)。



思えば、僕の青春時代、松坂はずっと大投手だった。いや、アメリカから福岡ソフトバンクホークスに帰ってきてから、今もそう。僕はピッチャーではなかったし、もうとっくに野球人ではないのだけれど、ずっと心の中で北極星のごとく輝いていた。なぜだろう。彼のプレーに惹かれていたのか。その活躍に憧れていたのか。その生き方に魅せられていたのか。

いずれ来るとは分かっていたつもりだけど、松坂の現役引退は、無責任にもなんだか寂しく感じる。それはきっと彼の野球人生とともに、僕の人生もあったという証なのではないか。今、書きながらそんなことを思う。つまり引退は、僕の記憶の“色”が変わっていくような感覚で。カラーだったのが、モノクロか、セピアか。はたまた逆なのか。

とにかくなんだか、ひとつの時代の終わりを感じますね。感じざるを得ませんね。


▼noteではエッセイを毎日更新中▼
note.com

【Sponsored Links】