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地方創生に興味ありまくりな29歳コピーライターのブログ。

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【週刊エッセイ#63】僕が移住・定住の促進に取り組むなら。

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どうも、ぼーの(@nobo0630)です。

最近、はてなブログproおよびドメインの契約を更新しました。

とりあえず今年も一応、ブログを携えて生きていようと思っています。

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ヨソモノの自分が、地域を書いて伝える意味。【1月14日(日)】

まちづくりに興味を持ったここ1年ほど、僕はライターとして自分の「書く」や「伝える」を地方で活かせないかと考えています。そんな中で迎えた2021年は、とてもありがたいことに、宮城でいくつかの案件に携わらせてもらいました。おもに移住に関するイベントでご縁をいただいた皆さま、また僕を抜擢してくださった皆さまには、本当に感謝しています。ありがとうございます。

そして恥を忍んで言うなれば、2022年も宮城でのお仕事をさせていただきたい気持ちがあります。そのためにも、より多くのイベントや地域に顔を出し、あらゆる人と関係性を構築したいとも思っていました。



しかし最近になって、地域にとって僕が「書く」や「伝える」をする意味ってどこにあるのだろう、なんて考えます。極端な話、大人も子どもも文章を使った表現ができる中で、わざわざ“ヨソモノ”の僕がそれをやる意味ってなんだろう、と。もうライター失格なのかもしれませんが、正直そんなことを考えます。

僕は基本的に、たとえば人に関する文章は、その本人が書いた方が説得力が増すと思っています。僕が「緑」に見えても、その人にとって「青」なら青です。極力、人を介さない方が純度が増し、より人となりが見えるコンテンツになるでしょう。



それでも、ヨソモノの僕がやる意味、あるいは僕に頼んでくれる意味はあるのでしょうか。ちょっと改めて考えてみると、今はふたつ思い浮かびました。

ひとつは、僕が文章を書くことを苦にしないこと。地域に文章を書ける大人は当然いますが、人によっては面倒に感じられることでもあるでしょう。それを、日頃から取り組んでいる僕がやる。これならどうにか、自分の意味を感じられそうです。
もうひとつは、地域の皆さんが、書くことを通じてコミュニケーションを促してくれていたこと。昨年の秋はまさに、取材というテイで宮城の地域をいくつか訪れることができました。これからUターンを考えている者として、より意味のある活動になったことは確かです。地域の皆さんとの関係性も深まりました。



この議題を思い浮かべるたびに、昨年お仕事を振っていただいていた宮城の皆さんがより尊く感じられます。ヨソモノの僕を積極的に巻き込んでくれて、本当にどうかしてます。(笑)そしてここまで書いて、あまりこちらが考えすぎてもよくないのかなとも思いました。まずは楽しく、地域の方々と関係性を築くこと。その先にライティングがあるのならば、僕は一生懸命に取り組むだけ。ひょっとしてひょっとすると、もっとシンプルに考えてみてもいいのかもしれません。

【ゆるぼ】いっしょにオンライン作業会をしてくれる方。【1月15日(土)】

突然ですが、どなたか今度いっしょにオンラインで作業会をしませんか。zoomでもmessengerのオンライン通話でも、とりあえず誰かの存在を感じ合いながら、仕事や作業に取り組みたいです。

近年はコロナの影響でリモートワークを強いられた方も、きっと少なくないと思います。その文化が広まる前から自宅で仕事をしていた僕は、会社員の友だちに「よく家でできるよね(笑)」なんて言われたこともありますが、感覚的にはオフィスがないだけ。いわば仕方なく自宅でPCを叩いており、コワーキングスペースやカフェを利用することもしばしば、です。

そしてつい最近、知り合いとzoomを繋ぎながら作業をしてみました。するとやはり案の定、ひとりの時よりも“ちゃんとしようと”するんですよね。他所行きの自分が顔を出すというか。結果、しっかりタスクも進んで良い時間を送ることができました。

ということで、たとえばリモートワークで集中できないという方、ぜひいっしょに作業しましょう。仕事しましょう。ちょっと雑談したりおやつタイム挟んだり、そんなこともできたらいいなあなんて企んでいます。

津波、そわそわ。【1月16日(日)】

昨夜、唐突に津波と注意報と警報が発令された。テレビを点けると、まっくらな港の映像と共に「にげて」という派手な文字が映された。僕が眠りに就こうとするころには、岩手県にも警報が出されていたと思う。

結果として今それらは解除されているが、とても落ち着かない時間を過ごした。宮城や岩手の知り合いたちの顔が浮かんでは消え、ただただ無事を願うことしかできなかった。大きな被害が出なくて、本当によかった。

もし、沿岸部の方と知り合っていない2年前の僕だったら、正直あんなにそわそわしたことはなかっただろう。冷たいヤツだと思われるかもしれないが、僕はそういう人間だ。ただ、東松島市や気仙沼市、石巻市に知り合いがいる今、自分の不安や心配も大きくなっている。たぶん、これがいわゆる愛というものなのだろう。

地方での活動に目覚め、日本のあちこちに知り合いを作ろうとしている今。2日前には島根県のイベントに行くなど、今年は宮城や東北に限らず、もっと活動を広げようと思っている。しかしその分、今後災害や事故によって、自分が心配になる時間も増えるのだろう。ひょっとしたら、自分が誰かをそわそわさせるのかもしれない。できれば避けたい感覚だけれども、人間の愛が持つ宿命なんだろうなあ。

「地域おこし協力隊」というネーミングへのもやもや。【1月17日(月)】

子育てを“手伝う”という夫に、妻がキレる。最近SNSかどこかで、そんな縮図をよく見かける。手伝うという言葉に漂う“片手間感”に、いったい誰の子どもなのと憤りを覚える女性の気持ちはよく分かる。そして、いつか自分はそう思われないようにしなければなあ、なんて思う。



「地域おこし協力隊」という制度がある。過疎や高齢化の進行が著しい地方に、都心を中心とした地域外の人材を呼び込もうという制度だ。今や受け入れ自治体は1000を超え、隊員数はのべ5000人以上にまで上るらしい。これから地方へ生活の拠点を移そうとしている僕個人的にも、重要な選択肢のひとつとなっている。宮城の現役の隊員とは、多くの交遊を持てているつもりだ。

しかし以前から、どうもそのネーミングが気に入らなかった。地域おこし協力隊。たしかに読んで字の如くではあるが、なんだか野暮ったい。なるたけ自分は名乗りたくないと思ってしまう。明確な理由は感じられないものの、ずっとそんなダサさというか、もやもやしたものを感じていた。



そんな中、ようやく最近その正体が分かったような気がする。原因は、“協力”という言葉だ。あくまで地域が主役であり、彼らはその発展を助けるために赴く、ということに異論はない。ただ、協力には、冒頭の「子育てを“手伝う”」じゃないけれども、どうしても腰が引けたようなニュアンスが感じられる。実際の隊員の皆さんはそんなことないと分かってはいるが、すべての体重を預けていないような感じ。実際の地域を見てみると、皆さん人生をかけて主役級の活躍をしているのに、脇役感が漂うのだ。

じゃあどんなネーミングならしっくり来るのかと、そんなことは言わないでほしい。浮かんでいないからだ。でも強いて言うなら、協力を除いた「地域おこし隊」ではどうだろうか。これはこれでオヤジギャグ的な匂いがすごいが、とりあえず僕は“協力”にもやもやしていたという話である。

予定を狂わせない方法。【1月18日(火)】

明日は、割とゆっくりな1日になる予定である。今日はアラームをかけず眠りにつくとしよう。仕事の予定はほどほどに、とはいえ遅くとも9時にはベッドを出て、あたまの中に思い描きっぱなしのアレコレを、どうにか具現化することに努めたい。

とか考えている時はたいてい、お昼ごろに目を覚ます。明日もきっとそうだろう。早くたって、11時。そして目が覚めたところで、きっとベッドでグダグダとスマホをいじり、気づいたら二度寝をし、13時を過ぎたあたりで慌てて身体を“縦”にするのだ。初っ端から予定を狂わせて始まる一日。これまで何度経験してきたことだろう。いい加減、もうやめにしたいものである。

今の“ねじれ”に対する、つまり予定を狂わせないための解決策は大きく分けてふたつ。ひとつは、しっかり予定通り、朝にビシッと起床して一日をスタートさせること。もうひとつは、そもそも予定を立てることをやめてしまうこと。予定という概念ごと、どこか遠くへ放り投げてしまうということだ。これまでの自分の傾向的には、この後者で乗り切ることが多かった。前者のように、強い意思と高い志で予定をこなしたいところだが、さて明日はどうなることやら。

僕が移住・定住の促進に取り組むなら。【1月19日(水)】

北海道日本ハムファイターズの新庄剛志新監督…いや“ビッグボス”が、昨年11月の監督就任会見で「優勝なんか一切目指しません!」と言い放った。前代未聞とも思える発言だが、その真意は以下のように続く。

高い目標を持ちすぎると、選手っていうものは上手くいかないと僕は思ってるんですよ。一日一日、地味な練習を積み重ねてシーズンを迎えて、それで、何気ない試合、何気ない一日を過ごして勝ちました。勝った、勝った、勝った、勝った…それで9月あたりに優勝争いをしてたら「さあ、優勝めざそう!」と、そこの気合いの入り方は違うと思うので、そういうチームにしていきたいなと。優勝なんかは目指しません。

つまりビッグボスは、“最初から”優勝は目指さないと言う。ファンがいるプロ野球のチームである以上、決して結果を追い求めないわけではない。目の前の1日を大切にし続けたその先に、優勝争いがあるといいよね、と。そこを勝ち抜けるチームでありたいよね、と。





今日は、とある地域の移住・定住サイトを眺めていた。「知る・働く・住む」という、移り住むにあたって大切な3つの切り口から伝えられている。その地域への移住を考えたら、とりあえずこのWebサイトを見ておけば大丈夫そうだ。

ただ、ふと思った。「この移住を検討してもらう段階までは、どう立ち回ればいいのだろうか」「またその場合、最初から移住を目的としたコミュニケーションをすべきなのだろうか」と。たとえばこれから自分が移住・定住の促進活動に取り組もうとした場合、どのようなコミュニケーションを目指すのだろうか。



すると僕は、「きっと“移住”という言葉は使わないだろうなあ」と考えていた。まずは、地方での生活に興味を持つ目の前の人と向き合い、そのコミュニケーションに尽力する。そしてお互いの個性や思考を理解しあって、「一回ウチへ遊びに来ちゃいなよ」と言えるほどの信頼関係を築く。その先に、いわゆる関係人口や移住という言葉があればいいなあと思う。

気分はそれこそ、新庄ビッグボスよろしく「移住・定住なんか一切目指しません!」である。まずは一人一人の、目の前の人とのコミュニケーションに全力を注ぎ、その結果、移住という結果があることが理想だと感じられているのだ。



この感覚は、これまで僕自身が移住検討者として、宮城県各地の皆さんから教わったこと。彼らは決して、移住を押し付けるようなことはしない。「いつでもおいで」と手を広げてくれて、本当に行ったら歓迎してくれて案内してくれて、僕はお仕事まで振っていただけたりもした。今や各地域には知り合いの顔が浮かび、それぞれが特別で大切な地域に感じられているのだ(結局移住はしていないが…笑)。



実際、これから自分が移住・定住の促進活動に取り組むかは分からない。でもひょっとしたら、取り組むことになるかもしれない。取り組むことになってもいいなと思う自分もいる。その際に大切にしていたい、いつまでも忘れたくない感覚である。

自分のない自分。【1月20日(木)】

今年のお正月、久々に再会した親戚と、石巻市への観光がてら日和山の頂上に位置する鹿島御児神社にも行ってきた。太平洋を望める山からの景色や、地元のキッチンカーの出店をひと通り見た後、一行の足はごくごく自然に本堂へと向いていた。初詣の参拝へつながる行列に並んでいたのだ。

鳥居を前にぺこりと頭を下げ歩を進める親族の姿を見て、僕は「俺いいわ」と後退りをした。彼らがお参りをしておみくじを引き終わるまで、僕だけは鳥居の外にいることにした。砂利をがじゃがじゃ云わせながら敷地内を練り歩いたり、立ち止まってスマホに時間を預けたり。それは初詣にも、あるいはおみくじにも、シンプルに意味を見出せなかったからである。お参りしたところで、運勢を示した文字を見たところで、今後の自分の人生にどんな影響があるのだろう。

客観的に見たら、いったい何を斜に構えているのだと思うかもしれない。いいから黙って家族と時間を共にしろ、なんてことも思うだろう。しかし、あの時は僕にとってアイデンティティをかけた、いわば自分との勝負だった。疑念を抱いたまま周りに流されていたら、“負け”のような気がした。いや、完全に“負け”だった。

思えば、これまで幾度となく初詣を強いられてきた。家族や友人など、もう誰かに誘われるがまま。いつも神社では、見よう見まねでテキトーに過ごしていたと思う。そんな“自分のない自分”と、今年は離れることができた。周りの親族が何を想ったかは知る由もないが、僕はこのアイデンティティを守り抜けたことに、大きな価値を感じてしまっているのである。


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